江戸時代から受け継ぐ地方の時代へ

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17世紀の日本、武士が経済を含めたまつりごとの全般をつかさどっていた。
お国(藩)が徴税権と立法行政権の全権を握っており、ある意味で地方主権の時代だったのです。これが日本文化のルーツ、江戸時代です。

Sir Ernest Mason Satow
Sir Ernest Mason Satow

幕末に日本に来たイギリス人、アーネスト・サトウErnest Mason Satowは、「将軍は大名達の盟主とも言うべき存在」と評しています。
将軍と大名は領主という立場では基本的に対等だったんです。

そして各大名は、その軍事力と威光において将軍を自分たちの盟主と仰ぐ関係だったようです。

ですので江戸幕府の行政機構は、
あくまで 幕府領に対してのみ行われ、大名の領土であるお国(藩)には一切口出しする権限はありませんでした。

天正10年頃(1582)本能寺の変があった頃の日本
江戸時代(天正10年頃)の日本

大名の封土は法的には独立国でした。
幕府の官吏といえども一切介入することはできません。
将軍は旗本八万騎と呼ばれる大きな軍事力をもち、その絶大な威光に大名は臣従する形態、これが幕藩体制でした。
将軍は大名に対する権限、即ち懲罰権、いわゆる改易、減封、転封などの処分ですが、これも法的には盟主からの命令ですので、大名には抵抗権が残されていました。
つまり将軍の意向が気に入らなければ、城を盾に将軍相手に一戦交える権利が残されていました。現に幕末に長州藩は幕命を無視して二度も幕府軍と戦っています。

一方で参勤交代や江戸詰で、幕府は中央集権的な威勢を保っていたのですが、それでもお国(藩)は独立していました。そこにその地方の文化が育ち、根付いたのは確かです。
江戸時代は、地方主権の時代であったといえます。

沖縄 普天間基地
沖縄 普天間基地

現在、沖縄県の翁長おなが知事が、普天間基地移転の問題で政府に従わない決意を表明しています。まるで江戸時代の地方主権に見るような沖縄県です。

そもそも日本の民主主義は、明治維新による幕藩体制の解体、廃藩置県による明治政府が作った中央集権化によって始まりました。
この時代があったからこそ近代国家へと急速に変革できた訳ですが、全て中央が権力を握った国家となりました。

今の中央集権的な政治体制では、地方創生への根本的な問題解決には至らないでしょう。
地方創生、地方主権、その典型を江戸時代の「藩」に見るような気がするのですが如何でしょう?

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