Humburg生まれの厳格なドイツ人といった風格があります。
若いときは苦労したがようですが、大作曲家となり大成し、名声と地位と経済的にも恵まれました。
保養地Starnberger Seeや貴族の保養地Bad Ischl、Paerchach am Wörthersee、Hofstetten bei Brientz(Thun湖)など、なんとも素晴らしい保養地で夏を過ごしています。
また、演奏旅行でヨーロッパ中あちこち旅行してますが、本当は旅行好きだったんでしょう。
作品は、慎重で、何度も推敲し、練り上げたような偉大なものを感じます。偉大なBrahmsに乾杯!!
若い時(20代)、Schumann一家と親しく、特にClara(14才も年上)とは特別な関係だったんです。
Claraとの関係を研究する人まで出る始末で、本当のことは分からないところが良いところじゃありませんか?
しかし一生独身で過ごすことになり、間違いなく寂しかったと思います。
不思議にもClaraが亡くなった翌年、Bramsも亡くなってしまうんですネ。
西暦 | 年齢 | 生涯 | 作曲 |
1833 | 0才 | 5/7Hamburgで生まれる。父Johann Jakob Brahmsは、市民劇場のコントラバス奏者であった。また母Johanna Henrika Christiane Nissenは17才も年上であった。 | |
1834 | 1才 | ||
1835 | 2才 | ||
1836 | 3才 | ||
1837 | 4才 | ||
1838 | 5才 | ||
1839 | 6才 | ||
1840 | 7才 | 父の友人Otto Friedrich Willibald Cossel(Pianist)に付かせ学ぶ。 | |
1841 | 8才 | ||
1842 | 9才 | ||
1843 | 10才 | Cosselの紹介でEduard Marxsen(作曲家、Pianist)に師事。 | |
1844 | 11才 | ||
1845 | 12才 | Edward Marxsenで学ぶ。 | |
1846 | 13才 | レストランや居酒屋でPiano演奏で生計を補った。 | |
1847 | 14才 | 11月Mendelssohnが亡くなった時、Marxsenは「例え一人の巨匠が亡くなったにせよ、同じように素晴らしい才能が、この少年の中で花開く」と書いている。夏Winsenのギーゼマン宅で過ごす。 | |
1848 | 15才 | 夏、Winsenのギーゼマン宅で過ごす。 solo Pianistとして公式で初の独奏会を開いた。 |
この頃の作品は150とも言われた。 |
1849 | 16才 | 独奏会を開いた。 | |
1850 | 17才 | ||
1851. | 18才 | スケルツオop.4を作曲 | |
1852 | 19才 | 19才以前の曲はBrahms自身で「未熟な作品」として破棄された。 | |
1853 | 20才 | 4月、Hungarian violinistのEduard Reményiとconcert tourに出る。Winsen、Lüneburg、Celle、Hanover、Weimerへと。Hanoverでvirtuoso Joseph Joachim(22才)と会い、Göttingenで再会、2ヶ月近く共同生活。WeimerでのFranz Liszt, Peter Corneliusとの面会は不調で、Reményiとはここで分かれる。DüsseldorfでRobert(43才) and Clara(38才) Schumannと出会い、賞賛受けた。Leipzigで自作品を演奏・出版する。12月にHumburgに帰る。 | ソナタ第1番(Joachimへ) ピアノソナタ第2番(Claraへ) |
1854 | 21才 | HanoverのJoseph Joachimのところで作曲活動。Hans von Bülowを紹介される。 Robert Schumannが2/27Rhein川へ投身自殺(未遂)入院の報を聞き、Düsseldorfに駆けつける。Schumannの家近くに住み面倒をみた。 |
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1855 | 22才 | このころの記載がないので、勝手に推測するんですが、青年Bramsの転機だったじゃないでしょうか? 22才のBramusが36才の姉のようなClaraに想いを寄せたのも想像に難くないし、人生の先輩で音楽的にも才能あるClara婦人は魅力的だったんじゃないかと思う訳です。この頃からBramsは大作曲家への道を踏み出していくんですね。 |
Sinfonie Nr. 1を作ろうと思い立った。 |
1856 | 23才 | Robert Schumann(46才)死去。最期の言葉「Ich weiß」が没後150年を経た現在でもBramsとの不倫説が絶えない原因となった。 葬儀はJoachimとBrahmsが取り仕切った。 |
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1857 | 24才 | Claraの紹介もあって、10月からDetmold宮廷に3ヶ月仕える。Köln音楽院からの教授要請も断り自由な生活を選んだ 意外にこの頃、苦しみ悩み、音楽家として力をつけていったと考える方が当たっていると思うのですが、どうでしょう。Konzert für Klavier und Orchester Nr.1 d-Moll op.15:1859年1/22初演、自身の独奏ピアノ、ヨーゼフ・ヨアヒムの指揮。 |
Konzert für Klavier und Orchester Nr.1 d-Moll op.15 (with Krystian Zimerman and Leonard Bernstein) |
25才 | 夏に2回目のDetmold宮廷仕えを終え、GöttingenでAgathe von Sieboldと恋仲になる。 | ||
1859 | 26才 | GöttingenでAgatheと婚約まで交わすが、一通の手紙が原因でAgatheから婚約を解消され破綻。3回目のDetmold宮廷仕えを最後に辞退してしまう。 | |
1860 | 27才 | Winterthürへ移転 String Sextet No.1 B-Dur Op.18:弦楽六重奏曲第1番変ロ長調op.18(Agathe六重奏曲) |
String Sextet No.1 B-Dur Op.18 |
1861 | 28才 | Wienに旅行後、Hamm(Hamburg近く)に移る | |
1862 | 29才 | 6月Rhein Music Festival(Köln)に参加。Clara Schumannに逢いHumburgに帰る。Wienに居を移し、Weiner Singakademieの指揮者となる。Richard WagnerとElisabeth von Stockhausenに出会う。 財政的成功を手に入れた後も質素な生活を好み、単純な3部屋のアパートに家政婦と住んでいた。朝はプラーター公園を散歩し、昼には「赤いはりねずみ:Red Hedgehog」のレストランに出かけるのが習慣となる。 |
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1863 | 30才 | 30才の誕生日にHumburgに戻るが、途上Stockhausenの依頼で6月Singakademieに戻る。 | |
1864 | 31才 | Singakademieの指揮者契約更新。 | |
1865 | 32才 | 1/30母Christianeが死亡。2月Karlsruhe,Winterthür,Zürichへ旅行。 String Sextet No.2 G Moll Op.36:弦楽六重奏曲第2番 Ein deutsches Requiem op.45 :ドイツ・レクイエム Sixteen Waltzes for piano, four hands Op.39《4手のためのワルツ集》 |
Part1 Part2 Part3 Part4 Mvt.1のみ Waltzes 1-5 Waltzes 6-11 Waltzes 12-16 Czech Suite D-Dur Op.39 15 |
1866 | 33才 | 8月Zürich,Baden-Badenへ | |
1867 | 34才 | ||
1868 | 35才 | Wienに居たが、Joachim,Stockhausenと共にGermany, Austria, Hungary, Switzerland, Denmark, Netherlandsに旅行。5月Hamburg。 | |
1869 | 36才 | 大ヒットとなったハンガリー舞曲で、作曲家として名声を確立でき、大きな転機になったと思います。 Ungarische Tänze WoO.1 :ハンガリー舞曲集(6曲)出版 |
Nr.1 by Tomomi Nishimoto Nr.5 by Tomomi Nishimoto |
1870 | 37才 | ||
1871 | 38才 | 『8つの小品』(作品番号76、1871年) | |
1872 | 39才 | 2月父Jakobが死亡。 9月Gesellschaft der Musikfreundeの指揮者となる。(~1875) |
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1873 | 40才 | 夏はStarnberger See に滞在する。 |
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1874 | 41才 | 夏、Rüschlikon, Ziegelhausen, Sassnitz, Hamburg, Lichtenthalを旅行。 Max Kalbeckと出会う。 |
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1875 | 42才 | 8/8 Gesellschaft der Musikfreunde(楽友協会)の指揮者再契約。夏旅行で詩人Gottfried Kellerとの交友。 | |
1876 | 43才 | 21年の歳月をかけてSinfonie Nr.1は完成した。 師匠Schumannは17年、この弟子は21年。Sinfonie Nr.1は気負うんかな~。 指揮者Hans von Bülowが「Beethovenの10番目の交響曲の様だ」「三大B」だと絶賛したとのこと。 しかし当人は「長ったらしくて、ちっとも愛すべき作品でないのができた」と彼らしい評価。 (でもホントにそうかもネ) Mannheimに夏期旅行。RügenでHenschelに出会う。 12月Wienに帰る。 Sinfonie Nr.1 in c-Moll, op. 68:着想から完成まで21年だが、この5年間で集中して取り組み完成。KarlsRuheの宮廷劇場で初演。 その後も種々改定が加えられた |
Sinfonie Nr.1 in c-Moll, op. 68 参考:モリパパ投稿「パーヴォ・ヤルヴィ(Paavo Järvi)とドイツ・カンマー・フィルハーモニー(Die Deutsche Kammerphilharmonie)」 |
1877 | 44才 | University of Cambridgeから名誉教授の称号を受ける。Leipzigでコンサート。 Elisabeth von Herzogenbergと組み(恋仲)、 Paerchach am Wörtherseeに旅行。そこでSinfonie Nr. 2, D-Dur op.73を書き上げる。 親友のBillroth (外科医)はこの曲を聴いて「Paerchachとはどんなに美しいところなのだろ」 と感想を書き残しているとか。 |
Sinfonie Nr. 2, D-Dur op.73 Sinfonie Nr. 2, D-Dur op.73 (Kurt Masur, Gewandhausorchester Leipzig) 「ブラームスの『田園』交響曲」と呼ばれる(Sinfonie Nr.1の第4楽章のほうがもっと田園らしいのにな~。でも第4楽章最後は圧巻) |
1878 | 45才 | 初めてItariaを旅行(以後計9回も旅行)。Itaria旅行から帰ってPaerchachでViolinkonzert D-Dur op.77を作曲開始、12月Wienで完成。前年同様、晩夏Leipzigを訪れ、また自作演奏のためHamburgを訪問。 | Violinkonzert D-Dur op.77 Erster Satz 1/3 Erster Satz 2/3 Erster Satz 3/3 Zweiter Satz Dritter Satz:ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 作品77 |
1879 | 46才 | 名声を得、地位も安定し、この頃から揺るぎない大音楽家として堂々たる作曲をしている様な気がします。Bramsの自信を感ずる曲が続々と生まれていると思うのですが、 | |
1880 | 47才 | 5月Schumann memorialにBonnを訪ね、Clara Schumann(61才)と再会。その後夏旅行をSuissのBad Ischlに変えた。 | ハンガリー舞曲集第3集、第4集、バイオリンソナタ、二つのラプソディー、ピアノ3重奏曲、運命の女神の歌、食卓の歌、 Academic Festival Overture In C Minor, Op. 80 1/2 2/2 :大学祝典序曲 |
1881 | 48才 | 2回目のItariaを旅行。2月Meinigen court orchestraからの依頼で年末Meinigenに旅行。 | 悲劇的序曲、哀悼歌、 Konzert für Klavier und Orchester Nr. 2 B-dur op. 83:ピアノ協奏曲第2番 By Krystian Zimerman Piano, Leonard Bernstein |
1882 | 49才 | 2月Berlin、春Wien、夏Bad Ischlに滞在する。 | 弦楽5重奏曲 |
1883 | 50才 | 夏WiesbadenでHermine Spiesと出会う。 | Sinfonie Nr. 3 in F-Dur op. 90 By Leonard Bernstein, Wiener Philharmoniker :Hans Richterは「この曲はブラームスの『英雄』だ」と言った。 |
1884 | 51才 | 夏Meinigen、それからMürzzuschlagへ滞在。ここで交響曲第4最初の2楽章を書いていた。 | |
1885 | 52才 | 8月交響曲第4の後の2楽章を書き、Elisabeth von Herzogenberg(恋人)に手紙で、作品の完成をにおわせている。 10月、自身の交響曲第4のリハーサルでMeinigenへ、すぐにドイツ~オランダへ演奏旅行に出る。旅行中交響曲第4の総譜、パート譜を徹底的に校正した。 |
Sinfonie Nr. 4 in e-Moll op. 98 Mvt1(1/2) Mvt1(2/2) Mvt2(1/2) Mvt2(2/2) Mvt3 Mvt4:Brams自信の指揮でMeinigen宮廷楽団によって初演された。その後校正されようやく1886年10月Simrock社から出版された |
1886 | 53才 | 初めてスイスHofstetten bei Brientz(Thun湖)で夏を過ごす。 | チェロソナタ第2番 バイオリンソナタ第3番 バイオリンとチェロの協奏曲 ジプシーの歌 バイオリンソナタ第3番 |
1887 | 54才 | 10才の時師事したEdward Marxsenが亡くなる。夏期Hofstetten bei Bientzに滞在。Clara Schumannを訪ねてFrankfurtへ。 | Double Concerto For Violin & Cello In A Minor, Op. 102 Zweiter Satz Dirtter Satz |
1888 | 55才 | ||
1889 | 56才 | “Freeman of Hamburg”と契約。この夏からBad Ischlへ滞在。 トーマス・エジソンの代理人の依頼で「ハンガリー舞曲第1番」を蓄音機に録音した。 Hamburgの名誉市民となる。 |
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1890 | 57才 | 10月作曲を断念しようと決心して遺書を書き、手稿を整理し始めた。 Bramsの自身に何があったんでしょう。この時期に人生の屈折を見るようなきがします。名誉や地位ではなく人生の本質的な生死に悩み、苦しんだのではないかと思います。そして、7年後に死を迎えることになります。 |
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1891 | 58才 | 遺言書(案)をSimrock社に送る。 | Clarinet Trio Op. 114 Clarinet Trio Op. 114 |
1892 | 59才 | 1月Elisabeth von Herzogenbergが亡くなる。6月姉Eliseが亡くなる。 | Clarinet Quintet Op.115 mvt1 :クラリネット五重奏曲 (ブラームス) Vier Klavierstucke Op.119 :『4つの小品』 Vier Klavierstucke Op.119 |
1893 | 60才 | Hermine Spiesが亡くなる。 | |
1894 | 61才 | Clara(75才)とJoachimに再会し仲直り。 | Sonata in F Minor op. 120 no. 1 for Clarinet and Piano:クラリネットソナタ Mvt 1 Mvt 2 Mvt 3 Mvt 4 |
1895 | 62才 | 弟Fritz死亡。Billrothが亡くなる。Bülowが亡くなる。Hofstettenへ。 | |
1896 | 63才 | 5/21Claraが亡くなり、BonnのRobertと共に埋葬。Karlsbadへ湯治に出かける。 | 4ッの厳粛な歌 (Vier ernste Gesänge), Op. 121 Eleven Chorale Preludes for organ, Op. 122 |
1897 | 64才 | 3/26病床につき、4/3Wienで肝臓癌によりWienで逝去 |
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表の中で緑色の文字はモリパパの個人的な書き込みです。