誰がドヴォルザークって言ったのか知らないけど、 チェコ語の発音では”ザラーク”としか聞こえません!
最も近いドヴォジャークと書くほうが良いと思いますね。
若くハツラツとした写真、青年の写真の方がイイですね。 ふるさと(田舎)大好き人間だったようで、一度彼の故郷Nelahozeves (Mühlhausen)に行ってみたくなるほどです。
2009年、Dresdenまで行った時、もう少し足を延ばせたら行けたのにと、悔んでいます。ドボルザークの曲には全体に、その田舎臭さが漂っているから、その田舎を見たくなるのです。
作曲家は、交響曲第9番が最後になると言う伝説が有るようで、彼も第9番の「新世界より」で 終わってます。Newyorkから故郷のCeskaを思う気持ちが伝わりますね。心労が積み重なったからこそ、52才となった人生の完成期に、染み渡るような良い曲ができるんでしょう。
西暦 | 年齢 | 生涯 | 作品 |
1841 | 0才 | 9/8 CeskaのNelahozeves (Mühlhausen)で14人兄弟の長男として生まれる。父はZitherの奏者。(Zitherとは) | |
1842 | 1才 | ||
1843 | 2才 | ||
1844 | 3才 | ||
1845 | 4才 | ||
1846 | 5才 | ||
1847 | 6才 | 村の学校に入る。 | |
1848 | 7才 | ||
1849 | 8才 | 村の教会の聖歌隊員 | |
1850 | 9才 | アマチュア楽団のヴァイオリン奏者 | |
1851 | 10才 | Zlonice (Slonitz) という町へ肉屋の修業 | |
1852 | 11才 | ||
1853 | 12才 | ||
1854 | 13才 | ||
1855 | 14才 | Ballad for Violin and Piano in D minor,Op.15:バラード I balada 作品15、B.139 | |
1856 | 15才 | Ceska Kamenice (Böhmisch Kamnitz)という町でフランツ・ハンケという教師にドイツ語と音楽を学び、Orchester des Cäcilienvereinsに入る。 | |
1857 | 16才 | 10月プラハ・オルガン学校(Prager Orgelschule)入学の準備で、 | |
1858 | 17才 | ||
1859 | 18才 | 卒業後Karl Komzakの楽団にviola奏者として入団 | |
1860 | 19才 | Bohemian Provisional Theater Orchestra(間仮の劇場)のÖstrichのviola奏者となる。 | |
1861 | 20才 | ||
1862 | 21才 | ≪Victor Hugo レ・ミゼラブルを書き上げる。≫ | |
1863 | 22才 | ||
1864 | 23才 | ||
1865 | 24才 | 金属細工商チェルマー(Cermakova)家の2人の娘の音楽教師。姉Josefinaに恋心を抱くも失恋。 コンクールの応募作品として最初の交響曲Sinfonie Nr.1を書く。コンクールに提出されたが、 その後紛失。この交響曲は生前演奏されることはなかった (Dvorak自身その存在を忘れていたと言われる)。初演は70年後の1936年10/4ブルノで行われた。 Sinfonie Nr.1を書くときはSchumannもBramsもそうだったように 長大な時間をかけ第1作を書くんだけど、応募作品として書いて、 その後その存在さえ忘れてしまったなどとは・・・トホホ。 |
歌曲集「糸杉」 (Cyprise) B.11 Sinfonie Nr.1 C-Moll Op.3:交響曲第1番ハ短調作品 ズロニツェの鐘(Zlonicke zvony)初演は70年後の1936年10/4ブルノで行われた。 Sinfonie Nr.2 B F-Dur :交響曲第2番 変ロ長調 作品4、B.12 I1 1887年に改訂の後、1888年3/11プラハで初演。 |
1866 | 25才 | Bedrich SmetanaがBohemian Provisional Theater Orchestraの指揮者として迎えられ、 当時42才のSmetanaから直接指導を受ける。 | |
1867 | 26才 | ||
1868 | 27才 | ||
1869 | 28才 | ||
1870 | 29才 | 最初のOperaである『アルフレート (Alfred)』を書き上げる。弦楽四重奏曲第3番や第4番。 (ワーグナーの影響が強く表れている) ≪1870年、普仏戦争が勃発≫ |
アルフレート (Alfred) B.16:作曲から68年後の1938年12/10初演(City Theatre, Olomouc) |
1871 | 30才 | 『ニュルンベルクのマイスタージンガー』のプラハ初演に刺激されて、歌劇『王様と炭焼き』 (第1作)が作曲。Smetanaは「まさに天才の理念に満ちた」作品と評したが、 しかし同時に「これが上演されるとは思わない」とも予言した。実際4週間のリハーサルの末、放棄された。 オーケストラを辞し、個人レッスンで生計を立てることにした。 | 王様と炭焼き (Kral a uhlir) B.21(第1作):これは放棄される。 これも作曲から58年後の1929年5/28に初演(Prag) |
1872 | 31才 | 出世作となった賛歌『白山の後継者たち』作曲。 | 賛歌「白山(ビーラー・ホラ)の後継者たち」 (Hymnus: Dedicovebili hory) 作品30、B.27:5月~6/3に作曲 |
1873 | 32才 | 3/9、『白山の後継者たち』は、学生時代の友人カレル・ベンドルの指揮で初演、 このとき妹のAnna Cermakovaと再会し、この年の秋に結婚した。(後に9人の子供が生まれる) この曲は成功を博し、プラハの音楽界で著名な存在となる契機を得た。 交響曲第3番 変ホ長調 作品10、B.34。1873年の作品。1874年3月29日、Prahaで初演。 |
Sinfonie Nr.3 Op.10 B.34:交響曲第3番変ホ長調作品10(B34) 1873年の作品。1874年3月29日、プラハで初演。 ロマンス Rmance in F minor, Op11 By Isaac Stern: violin-Philadelphia Orchestra :77年頃アレンジし直しRmanceと名付けられた。 |
1874 | 33才 | PragのSt.Adalbert’s教会のOrganisに就任し、 年俸が保証され新婚生活の経済状態を安定させることができた。 Sinfonie Nr.3、Nr.4他数曲を、新たに設けられたオーストリア政府の国家奨学金の審査に提出した。 また、かつて放棄された『王様と炭焼き』の台本を再び採り上げ、 これに第1作とは全く異なる音楽を作曲し、ナンバーオペラ完成。11/24初演。 | Sinfonie Nr. 4 D Moll, Op.13 交響曲第4番ニ短調作品13(B41)第3楽章のみ1874年5/25に初演されましたが、全曲の初演は1892年3/6日Pragにて公演 がんこな連中 (Tvrde palice) 作品17、B.46 1874年作曲。1881年10月2日初演(プラハ)。 |
1875 | 34才 | 彼の年収(126グルデン)の2倍以上の高額な奨学金(400グルデン)を5年間受け取る。 豪商ヤン・ネフの依頼で作曲されたのが全22曲の『モラヴィア二重唱曲集』を作曲。 奨学金審査のためにこの作品を提出し、審査員を務めていたブラームス(当時42才)は この曲に目をとめ、懇意にしていた出版商Fritz Simrockを紹介した。 9月、Antonin Dvorakは長女を失う |
String Quintet No. 2 in G major, Opus 77, (B. 49)弦楽五重奏曲第2番 ト長調 作品77、B.49 1mov.part1 1mov.part2 2mov 3mov 4mov :5/18 Pragueで初演。 Sinfonie Nr.5 F-Dur Op.76 B.54 :交響曲第5番ヘ長調 作品76 ;79年3/29Pragで初演。 ピアノ四重奏曲第1番 ニ長調 作品23、B.53:作曲1875年、初演1880年ベルリン。 Serenade für Streichorchester op.22 :弦楽セレナーデ 1/5 2/5 3/5 4/5 5/5 :5/3~14の10日で作曲。 プルジェデフラ・ヴァンダ (Predehra Vanda) 作品25、 B.55:76年4/17初演(プラハ)。 |
1876 | 35才 | 弦楽五重奏曲ト長調 (Op.77, B.49) で芸術家協会芸術家賞を獲得する。 | cantata Stabat Mater (Op. 58, originally Op. 28 B. 71) モラヴィア二重唱曲集 (Moravske dvojzpevy) 作品32、B.60, 62:全13曲。1875年3月~翌年7月半ばに作曲。 ピアノ協奏曲 ト短調 作品33、B.63:1876年の作品。1883年3月24日、プラハにて初演。 主題と変奏 (Tema con variazioni) 変イ長調 作品36、B.65 :ピアノ独奏曲として作品中最も規模の大きな作品(演奏時間約12分)。 |
1877 | 36才 | 8月に次女ルジェナが、翌9月に長男オタカルが相次いでこの世を去った。 彼らの冥福を祈る意味で作曲。11/13オーケストレーションを完成。 深い悲しみを克服し穏やかな平安を得ようとする真摯な祈りに満ちた作品となっている。 傑作『スターバト・マーテル』を作曲。 | 交響的変奏曲 作品78、B.70 1877年に作曲された作品 いたずら農夫 (Selma sedlak) 作品37、B.67 1877年作曲。1878年1月8日初演(プラハ)。 スターバト・マーテル 作品58、B.71 :80年12/23プラハ音楽芸術家協会の定期コンサートにおいて初演。 |
1878 | 37才 | 出版商Simrockから「Brahmsの『ハンガリー舞曲集』に匹敵するような、 『スラヴ舞曲集』の作曲」を依頼され作曲。大成功を収める。 ウィーンのブラームス(当時45才)を訪ねる。 プラハで初演されて成功を収めたオペラ『いたずら農夫』好評を得る。 |
セレナード ニ短調 作品44、B.77:管楽アンサンブルのためのセレナード。 1878年、『スラヴ舞曲』第1集と同時期の作品。 3つのスラヴ狂詩曲 作品45、B.86:弦楽六重奏曲 イ長調 作品48、B.80 初演1879年ベルリン。 Slawischen Tänze Op.46 B.83 No.1 No.7 No.8 を出版。 |
1879 | 38才 | 弦楽四重奏曲第10番、 チェコ組曲(Czech Suite in D Major, Op. 39)を4月作曲完成。 同年5/16かつてAntonin Dvorakがメンバーであった 国民歌劇場 (Národnì divadlo)のオーケストラをAdolf Cechの指揮で初演された。 ヴァイオリン協奏曲 イ短調 作品53、B.108 1879年7月~9月に作曲。Joseph Joachimの助言を容れて修正を行い1880年5月に完成、Joachimに献呈。 1882年夏更に改訂、1883年10/14Pragueで初演されたが、 オンドジーチェクOndricekというCzech violinistであった。 Brams(当時46才)がPragueのDvorakの許を訪ねている。 |
Violin Concerto in A minor, Op. 53 (B108) :ヴァイオリン協奏曲 イ短調 作品53、B.108 part 1 part 2 part 3 part 4 part 5 Czech Suite in D Major Op.39 :チェコ組曲 ニ長調 作品39 B.93 Orchestra 2/5 3/5 4/5 5/5 Prague Waltzes, B99 By Prague Symphony :ナロードニー・ペセタ(National Club)の創立30周年の記念舞踏会に寄せて作曲したもの。 |
1880 | 39才 | Brahmsの紹介でSimrockから’78年に出版した「スタバト・マーテル」 (Stabat Mater) が海外で当たり、海外でも有名になり’84年にLondonにも招かれることにもなった。 歌曲集『ジプシーの歌』を書き上げる。ドイツ語に訳して付曲した作品で、 第4曲「我が母の教えたまいし歌」 (Songs my mother taught me, Op 55)は、歌曲中で最も有名な作品。 交響曲第6番ニ長調である。ハンス・リヒターに献呈された。 |
Sonata for Violin and Piano in F major, Op. 57, B.106 :ヴァイオリンソナタ ヘ長調 作品57, B.106 歌曲集「ジプシーの歌」 (Ciganske melodie) 作品55 Songs my mother taught me,Op55 Sinfonie Nr.6 D-Dur Op.60 B.112 (交響曲第6番)1881年3/25Pragで初演。 |
1881 | 40才 | 交響曲第6番の完成直後、Slavonic Dancesで気をよくした出版商Simrockからの要請もあったが、 半ば自発的に年初めより、Legends,Op.59 B.122(伝説曲 作品59(全10曲)を作曲した。 | チェコ組曲 ニ長調 作品39、B.93 Legends,Op.59 B.122 :伝説曲 作品59(全10曲) ディミトリー (Dimitrij) 作品64 1881年 – 1882年作曲、1883年・1894年改訂。1882年10月8日初演(プラハ)。 |
1882 | 41才 | オペラ『いたずら農夫』Dresdenで上演され好評を得る。 序曲「わが家」を作曲。これは芝居『ヨゼフ・カイエターン・ティル』の劇音楽として 作曲された10曲の中の1曲で、現在ではこの序曲以外が演奏されることはほとんどない。 |
Ouverture Op62a、B.125a (Domov muj):序曲「わが家」 初演は1882年2/3ティルの誕生日に公演、指揮はアドルフ・チェフ。 |
1883 | 42才 | 古いフス派の聖歌を主題とする劇的序曲『フス教徒』を書き上げる。 オペラ『いたずら農夫』ハンブルクで上演され好評を得る。 投稿プラハ国民劇場と序曲「フス教徒」を参考までに見て下さい。 |
スケルツォ・カプリチオーソ 作品66、B.131:4~5月にかけて作曲。 カンタータ「幽霊の花嫁」 (Svatebni kosile) 作品69、B.135:5月~11月作曲。 翌年3/28プルゼニュで初演。 Ouverture:Hustiska dramaticka ouvertura Op.67 B.132「フス教徒」 :初演は11/18プラハ。 Notturno In B, Op. 40:ノットゥルノ |
1884 | 43才 | 3月、ロンドン・フィルハーモニック協会(London Philharmonic Society) の招きでLondonを訪問。 その後、Nelahozevesに建てた別荘にこもる。この別荘は、義理の兄にあたるコウニツ伯爵から 土地を譲り受けて造ったもので、ゆったりとした田園生活を送った。 8月末にはウスター大聖堂50周年記念祭で演奏のため再び渡英。 11月ベルリンで指揮者デビューを果たす。 London Philharmonic Societyの名誉会員に推薦され、新作交響曲の依頼を受けた。 これに応え作曲されたのが交響曲第7番 ニ短調 作品70、B.141。 |
From The Bohemian Forest, Op. 68-5 Silent Woods:Waldesruhe(森の静けさ) 83年秋~84年1月にかけて作曲。原曲はピアノ連弾のための作品。 91年にチェロとピアノのた室内楽作品に編曲、93年にチェロと管弦楽のために編曲された。 |
1885 | 44才 | 4月に3度目の渡英を果たす。 | Symphony No.7 in D miner Op.70 B.141 :交響曲第7番 1st Mvt 2nd Mvt 3rd Mvt 4th Mvt :’85年4/22 Londonで初演。劇的序曲『フス教徒』ととも主題上の関係がある作品。 |
1886 | 45才 | Slavonic Dances第1集の大成功で、Simrockから第2集作曲の強い要請があったが 興味が持てずにいた。しかし、8年後のこの年6月突然この作品集に取りかかると、 1ヶ月後には4手ピアノによる作品8曲を完成させてしまった。 | |
1887 | 46才 | 8月にSimrockに対して「今は新作の構想はない」と言いながら、 10月には室内楽曲の傑作ピアノ五重奏曲イ長調(Op.81, B.155)を完成させている。 そして秋に交響曲第5番、交響的変奏曲、弦楽五重奏曲ト長調、詩篇149番といった作品とともに 新作を携えてBerlinのSimrockを訪れ、これらの作品を購入すること、 そのスコア表紙の作曲者の名前は「Ant.」とすることを承諾させたのであった。 自信あるよネ~~。強気で行こう!! まさに人生の中で生気みなぎる季節だったのである。 ロマンティックな小品 (Romanticke kusy) 作品75, B.150 4曲から成る小品集。1月中旬にまず弦楽三重奏曲として作曲され、 その後すぐにヴァイオリンとピアノのための作品として編曲(初演3月)。 <エジソンが蓄音機を発明> |
Slawischen Tänze Op.72 By Boston Symphony Orchestra Seiji Ozawa, conductor Yo-Yo Ma, cello Itzhak Perlman, violin を出版する。 Piano Quintet in A Major, Op.81 :ピアノ五重奏曲イ長調(Op.81, B.155) ジャコバン党員 (Jakoin) 作品84、B.159(第1稿)、B.200(第2稿)3幕 王様と炭焼き (Kral a uhlir) B.42(第2作)、作品14、B.151(第3作) :74年作曲、87年改訂(第3作) Romatnic Pieces for Violin and Piano, Op. 75 B.150 (Romanticke kusy):《ロマンティックな小品》Op.75(B.150)4曲から成る小品集(初演3/30)。 Miniatures Op.75a:ミニアチュア(Drobnosti)作品75a,B.149 |
1888 | 47才 | プラハを訪れたチャイコフスキー(Tchaikovsky 48才)と親交を結ぶ。 | 交響曲第2番 変ロ長調 作品4、B.12 1865年の作品。1887年に改訂の後、 1888年3月11日にプラハで初演。 |
1889 | 48才 | オーストリア三等鉄王冠賞 | |
1890 | 49才 | Symphony No.8 Op.88 G B.163を完成させる。しかしsimrockは 「大規模な作品は売れ行きがよくない」ことを理由に買い叩こうとした。 このため、両者の溝は決定的なものとなり、Dvorakは、Londonの出版社Novello社に この新作交響曲を渡してしまった。London/Novelloから出版されたため、 この交響曲はLondonと呼ばれ、かつてはEnglandの愛称で呼ばれたこともあった。 Pyotr Ilyich Tchaikovskyの招きで、MoscowのSt.PetersburgのOrchestraで指揮を取った。 チェコ科学芸術アカデミーの会員に推挙される。秋、プラハ音楽院教授就任を受諾。 |
Symphony No.8 Op.88 G B.163 (交響曲第8番) ’90年2/2プラハで初演。 |
1891 | 50才 | ニューヨーク・ナショナル音楽院の創立者・理事長ジャネット・サーバーから ドヴォルザークに音楽院院長職への就任依頼を一旦は辞退、 プラハ音楽院から得ていた金額の約25倍に当たる年俸15,000ドルという提示額に依頼を受ける。 プラハ大学名誉博士号、University of Cambridge名誉音楽博士号授与される。 10/9、英BirminghamのTriennial Music FestivalでRequiemレクイエム 変ロ短調 作品89、 B.165を自身の指揮で初演。 Requiemとピアノ三重奏曲第4番『ドゥムキー』という2つの重要な作品を完成。 |
序曲;自然の中で V priorode(作品91 B.168)、謝肉祭Karneval(作品92 B.169)、 オセロOthello、この3作をまとめて序曲三部作「自然と人生と愛」とした。 Dumky :ピアノ三重奏曲第4番 ホ短調 作品90、B.166 「ドゥムキー」 :’90年11月~2月に作曲(91年4/21初演)。 Rondo For Cello And Orchestra In G Minor, Op.94「ロンド ト短調」 |
1892 | 51才 | ブレーメンから船に乗り、9月27日にニューヨークに到着。 10月からNational Conservatory of Music(New York City)で講義を開始した(年俸$15,000)。 National Conservatory of Musicはwealthy and philanthropic socialiteによって設立された。 | Othello Ouverture Op.93:序曲「オセロ」、序曲三部作「自然と人生と愛」の一つ。 テ・デウム ト長調 作品103、B.176:92年アメリカ発見200年祭のため渡米直前に作曲。 6/25~7/28に作曲。92年10/21ニューヨークでAntonin Dvorakの指揮により初演された。 カンタータ「アメリカの旗」(作品102、B.177)は渡米後の1893年に完成された。 |
1893 | 52才 | Newyorkでは、Perlman Place近くの327 East 17th Street に住み、 ここで唱歌「家路(Z noveho sveta)」でお馴染みのSymphony No.9を書き上げた。 1月に着手した Symphony No.9, “From the New World”は5/24に完成し、 12/16カーネギーホールで初演された。 ホームシックに火が点いてしまった訳です。 ボヘミアからの入植者が住むスピルヴィルという小さな町(アイオワ州)を訪問してるんですが、 心はチェコ(Ceska)への望郷の思いがこみ上げてくるんですね。 From the New World to Ceskaと言った方が良いんだけど、 そこは米国のスポンサーに配慮したんでしょうね。でも、ついに2年後、 体調を崩すほどホームシックになって帰国、二度と米国には来ないんです。 米国の人には悪いけど、僕だってUSAよりボヘミアの方がズーッと良いと思うんだから、 当然と云えば当然!! |
Symphony No.9, “From the New World”:交響曲第9番 ホ短調 作品95 I (part 1) I (part 2) Ⅱ(part 1) Ⅱ(part 2) Ⅲ Ⅳ(part 1) Ⅳ(part 2) String Quartet in F (the “American”) :弦楽四重奏曲第12番 1st 2nd 3rd 4th String Quintet in E-flat major, Op. 97, B. 180 :《弦楽五重奏曲(第3番)変ホ長調》Op. 97(B. 180) Sonatina for Violin and Piano in G major, Op. 100 :ヴァイオリンとピアノのためのソナチネ ト長調 作品100(B.183) 1st mvt 2nd mvt 3rd mvt 4th mvt |
1894 | 53才 | 4月ニューヨーク・フィルハーモニーの名誉会員に推されるという栄誉を受けた。 3月『聖書の歌』を作曲。秋、契約を2年間延長する約束で、5ヶ月間の休暇を取りボヘミアに帰る。 チェコに着くとヴィソカーNelahozevesの別荘に直行。 ユーモレスク (Humoresky) は、帰国した際に作曲された。 Humoreskyには、帰国した時の安らぎと心軽やかさが、 いきいきと表現されていますね~。米国人には解らないと思いますよ。 ここがひょうきんなKleislerと違って、田舎モンのDovorakなんですよ。 でも、また10月にニューヨークに戻るんですよね。辞めときゃ良かったのに、ネ~!! |
From The Bohemian Forest, Op. 68-5 Silent Woods(YoYo-Ma) :森の静けさ(Waldesruhe)としてチェロと管弦楽のための編曲版を作成した。 聖書の歌 (Biblicke pisne) 作品99、B.185:全10曲。3月作曲。 95年このうち5曲を管弦楽伴奏版に編曲。 Humoresques, Op. 101,7 No.7(YoYo-Ma) :ユーモレスク (Humoresky) 作品101、B.187 |
1895 | 54才 | チェロ協奏曲(2/9)完成させるが、強烈なホームシックに襲われ体調を崩しこれが限界だった。 4/9アメリカを去る。11/1プラハ音楽院で再び教鞭を執り始めた。 Gesellschaft der Musikfreunde(Wien)の名誉会員となる。 |
Concerto For Cello In B Minor, Op. 104, B 191:チェロ協奏曲 ロ短調 作品104、B.191 :前年11月~95年2月に作曲、95年6月に改訂。96年3/19ロンドンで初演。 弦楽四重奏曲第14番 変イ長調 作品105、B.193:アメリカ滞在中に着手され、 チェコに帰国した後12/30に完成。 |
1896 | 55才 | 3月最後となる9回目のイギリス訪問。カレル・ヤロミール・エルベンの詩に基づく交響詩の連作 (『水の精』、『真昼の魔女』、『金の紡ぎ車』、『野ばと』)を作曲した。 | 「水の精」 (Vodnik) 作品107、B.195 「真昼の魔女」 (Polednice) 作品108、B.196 「金の紡ぎ車」 (Zlaty kolovrat) 作品109、B.197 「野ばと」 (Holoubek) 作品110、B.198 |
1897 | 56才 | 7月にオーストリア国家委員会の委員となる(かつて自身が得ていた奨学金の審査を行う委員会)。 | 「英雄の歌」 (Pisen bohatyrska) 作品111、B.199 1897年作曲、1898年12月4日、ウィーンにてグスタフ・マーラーの指揮により初演。 |
1898 | 57才 | それまでブラームスしか得ていなかった芸術科学名誉勲章を フランツ・ヨーゼフ1世の在位50周年式典の席で授けられている。 | 悪魔とカーチャ (Cert a Kaca) 作品112、B.201 3幕。1898年5月から1899年2月にかけて作曲され、1899年11月23日にプラハの国民劇場で初演された。 |
1899 | 58才 | ||
1900 | 59才 | 歌劇:ルサルカ (Rusalka) 作品114、B.203を、4月から11月にかけて作曲 (翌年3月31日にプラハ国民劇場で初演)。 11作の歌劇の中で、今ではこのRusalkaの第1幕:月に寄せる歌(Lied an den Mond)くらいしか歌わわれてません。なるほど、残る曲だけあって、なかなかイイ曲ですヨ~。 |
歌劇:ルサルカ (Rusalka) 作品114、B.203 Lied an den Mond |
1901 | 60才 | オーストリア貴族院はAntonin Dvorakを終身議員に任命し、 7月にはプラハ音楽院の院長に就任した。 | |
1902 | 61才 | ||
1903 | 62才 | ||
1904 | 63才 | 最後の作品であるオペラ『アルミダ』(1902年 – 1903年作曲、1904年3月25日初演)は、 初日から不評に終わってしまった。5月1日、昼食の際気分が悪いと訴え、 ベッドに横になるとすぐに意識を失い、そのまま息を引き取った。 死因は脳出血だった。葬儀はその4日後の5月5日に国葬として行われた。 棺はまずプラハの聖サルヴァトール教会に安置された後、ヴィシェフラド墓地に埋葬された。 |
文中マーク はウキペディアにある解説です。また マーク はYou Tubeに掲載された曲・動画で、新規タブで表示します。 表の中で緑色の文字はモリパパの個人的な書き込みです。