チャイコフスキーの一生

Tchaikov_blackチェコにDovorak、ロシアにTchaikovsky、同時に大作曲家が誕生することがあるんですね。

1888年プラハを訪れたTchaikovsky(48才)は、A.Dovorak(47才)と親交を結んだようです。どんな付き合い方だったんでしょう?
チョット違った二人ですが、後々に多くの作曲家に影響を与えたのは間違い有りません。
これからの21世紀、こういった偉大な作曲家が出ることがあるのでしょうか? ひょっとしたら我々聴衆側の問題かもしれません。

ロシアもTchaikovskyもそれほど好きじゃありませんが、 Serenade für Streichorchestra op.48は「これ本当にTchaikovskyが書いたの?」と 思わせるような曲です。気に入っています。

西暦 年齢 生涯 作曲
1840 0才
 
ロシアのウラル地方Votkinskで鉱山技師の次男として生まれる。
チャイコフスキーとは祖父ピョートル・フョードロヴィチの代にチャイカ(Чайка; 伝統的なウクライナの苗字で、カモメを意味する)から改めた姓であり、家系は現在のポルタヴァ州に領地を持っていたウクライナ・コサックのチャイカ家に出自を持つ。
 
1841 1才
 
   
1842 2才    
1843 3才    
1844 4才    
1845 5才  ファニー・デュルバルフというフランス女性の家庭教師から初歩教育を受ける。  
1846 6才    
1847 7才    
1848 8才 モスクワへ転居、次いでペテルブルクへ転居  
1849 9才    
1850 10才 10歳で、St.Petersburgの法律学校 Imperial School of Jurisprudenceに 寄宿生として入学させた。  
1851 11才    
1852 12才    
1853 13才    
1854 14才 コレラで母Alexandra(40才)が亡くなる。 「ヒュペルボラ」(1854)(作曲者により放棄)
1855 15才 Rudolph Kündingerにピアノを習う。  
1856 16才    
1857 17才    
1858 18才    
1859 19才 5/25卒業、6/15司法省(Ministry of Justice)に入省。  
1860 20才    
1861 21才 Anton Rubinstein が新設したばかりのペテルブルク音楽院に入学。  
1862 22才 司法省の職を辞して音楽に専念。  
1863 23才 ≪Victor Hugo 『レ・ミゼラブル』を書き上げる。≫  
1864 24才   「ボリス・ゴドゥノフ」(1863-64頃)
オラトリオ (1863-64頃)
1865 25才 12月音楽院卒業。
卒業作品「歓喜への頌歌」を作曲。
11月Anton Rubinsteinの弟Nikolai Rubinstein が創設したMoscow音楽院の教師となる。
弦楽四重奏曲変ロ長調 (1865)(第1楽章のみ)
ピアノソナタ 嬰ハ短調 作品80 (1865) – 4楽章構成
カンタータ「歓喜に寄せる」 (1865) :ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの交響曲第9番ニ短調の第4楽章と同じく シラーの詩のロシア語訳による。
1866 26才 Sinfonie Nr.1(g-Moll) op.13 “Wintertraüme”を作曲。「この曲はいろいろと未熟ではあるが、それでも基本的には私の他の成熟した作品の多くよりも内容があるし、優れている」とTchaikovsky自身言っている。
初のオペラ「地方長官」を完成。
同年Moscow音楽院講師として招かれる。
 Sinfonie Nr.1(g-Moll) op.13″Wintertraüme” 交響曲第1番ト短調『冬の日の幻想』
By Frankfurt Radio Symphony Orchestra) ∙ Paavo Järvi
ト短調作品13「冬の日の幻想」1868年全曲初演。
デンマーク国歌による祝典序曲 作品15 (1866)
1867 27才 オペラ「地方長官」作品3 を完成。
しかし作曲者により破棄され断片のみ現存
「大混乱」(1867)
「ハープサルの想い出」作品2 – 1.城跡(1867)・2.スケルツォ(1863,1864)・3.無言歌(1867)
1868 28才 オペラ歌手デジレ・アルトー(33才)(Desiree Artot) と恋に落ち、毎晩、彼女の元へ通うようになる。この事が誰の目にも明らかになり、 自分の父親に結婚したい旨を手紙で書き送る。婚約にまで至るが・・・ 幻想曲「運命」 作品77 (1868)
1869 29才 Desiree Artotとの関係破局。 (Desiree Artotはスペインのバリトン歌手Mariano Ramosと結婚している)

トルストイ 「戦争と平和」を出版≫

「オンディーヌ」(1869)
50のロシア民謡 (1868-69) – 民謡を4手連弾のために編曲した作品。
「花と昆虫の合唱」 (1869)
6つの歌 作品6 (1869) – 6曲目「ただあこがれを知る者だけが」
1870 30才 弦楽4重奏曲第1番を初演奏。

≪1870年、普仏戦争が勃発≫

「マンドラゴラ」(1870)(未完)
1871 31才   「オプリチニク」 (1870-73)
弦楽四重奏曲第1番ニ長調 作品11(1871)
1872 32才   Symphony No.2 “Little Russian” 交響曲第2番
ハ短調作品17「小ロシア」
「セビリャの理髪師」(1872)
Nikolai Rubinsteinの誕生日のためのセレナード(1872)
「ピョートル大帝生誕200周年記念カンタータ」 (1872)
1873 33才 交響曲第2番初演奏、大成功を収める 「雪娘」 作品12 (1873)
幻想序曲「テンペスト」 作品18 (1873)
6つの小品 作品19 (1873)
同一主題による6つの小品 作品21 (1873)
1874 34才   「鍛冶屋のヴァクーラ」 作品14 (1874)(改訂され「チェレヴィチキ」へと改題)
弦楽四重奏曲第2番ヘ長調 作品22(1874)
1875 35才 ピアノ協奏曲第1番を作曲。初演を依頼したNikolai Rubinsteinの酷評を受け、 Hans von Bülowに楽譜を送る。Bülowによる初演は大成功し、 ヨーロッパ各都市で演奏された。NikolaiはTchaikovskyに謝罪し、 Nikolai自らもこの曲を演奏するようになった。  Klavierkonzert op. 23 in b-Moll  ピアノ協奏曲第1番変ロ短調
憂鬱なセレナード(ヴァイオリンと管弦楽のための) 作品26 (1875)
 Symphony No.3 in D major Op.29″Polish”
「ペトロフの舞台生活50周年祝賀カンタータ」 (1875)
1876 36才 富豪の未亡人Nadezhda Filaretovna von Meck から資金援助を申し出られ、Tchaikovskyのpatronとなる。 頻繁に手紙が交わされ1,000通にも及んだが、2人が会うことは一度もないまま、 この交際は14年間にわたってつづいた。
このころ作曲された交響曲第4番はvon Meck夫人に捧げられた。またトルストイとも知り合う。
 
「白鳥の湖」 作品20(1875年夏~1876年4月末)
Francesca Da Rimini,Op.32 1876年の秋、バイロイトを訪れて3週間も経たないうちに作曲されました。彼は友人であり元友のセルゲイ・タネエフに捧げられています。
 By Bernstein, NYP
幻想曲
Marche Slave, Op. 31 RNO :スラヴ行進曲 作品31
弦楽四重奏曲第3番変ホ短調 作品30(1876)
四季(12の性格的描写)-作品37bis (1875-76) – 雑誌の企画で詩とともに毎月載せられた、それぞれの月に由来する12の小品からなる
1877 37才 4月突如Antonina Miliukovaと結婚。この結婚は失敗し、TchaikovskyはMoscow川で自殺を図るほど精神的に追い詰められた。
参考までにモリパパのブログ西本智美と日本フィルでチャイコフスキーを見て下さい。

バレエ「白鳥の湖」完成、Eugen Onegin (Oper)完成。

トルストイ 「アンナ・カレーニナ」を脱稿≫

Romance in F minor for piano, Op. 5
Sinfonie Nr. 4 f-Moll op. 36 交響曲第4番ヘ短調Op.36
ロココの主題による変奏曲(チェロと管弦楽のための) イ長調 作品33 (1877)
1878 38才 1878年から約10年間、ヨーロッパ周辺を転々とし、大作から遠ざかる。
「弦楽セレナード」(作品48)、大序曲『1812年』(作品49)が書かれる。
Eugen Onegin (Oper) Polonaise エフゲニー・オネーギン 作品24
ヴァイオリン協奏曲ニ長調 作品35 (1878)
なつかしい土地の思い出(ヴァイオリンとピアノのための) 作品42 (1878)
中級程度の12の小品 作品39 (1876-78)
ピアノソナタ ト長調 作品37 「グランドソナタ」 (1878) – 4楽章構成
子どものアルバム(24の易しい小品)作品39 (1878)
聖金口イオアン聖体礼儀 作品41 (1878)
1879 39才   「オルレアンの少女」 (1879、82)
ピアノ協奏曲第2番ト長調 作品44 (1879-80)
組曲第1番 ニ短調 作品43 (1878-79) (6曲)
1880 40才   「僭称者ドミトリーとヴァシリー・シュイスキー」(1880)
「モンテネグロ」(1880)
“Romo and Julirt”-Fantasy Overture幻想序曲(1869初稿,’70第2稿,’80最終稿)
Serenade für Streichorchestra op.48 
 Ouvertüre 1812 OP.49序曲《1812年》
イタリア奇想曲 作品45 (1880)
弦楽セレナーデ ハ長調 作品48(1880)
1881 41才 友人Nikolai RubinsteinがParisで亡くなる。彼の死を悼んでピアノ三重奏曲の作曲を着手する。 翌年完成し、ニコライの一周忌に初演。 原稿には”a la memorie d’un grand artiste”(ある偉大な芸術家の思い出のために) と書かれていた。 「オルレアンの少女」 (1879、82)
1882 42才   ピアノ三重奏曲イ短調 作品50「ある偉大な芸術家の思い出のために」(1882)
6つの小品 作品80 (1882) – 4曲目「ナタ・ワルツ」、6曲目「感傷的なワルツ」
カンタータ「モスクワ」 (1883)
晩祷 作品52 (1882)
1883 43才   組曲第2番 ハ長調 作品53 (1883) (5曲)
戴冠式祝典行進曲 (1883)
1884 44才   協奏的幻想曲(ピアノと管弦楽のための) ト長調 作品56 (1884)
組曲第3番 ト長調 作品55 (1884) (4曲)
1885 45才   マンフレッド交響曲 作品58 (1885)
「チェレヴィチキ」 (1885)(「鍛冶屋のヴァクーラ」の改作)
「チャロデイカ」 (1885-87)
法律学生行進曲 (1885)
9つの宗教音楽作品 (1884-85)
1886 46才   「ヴォイェヴォーダ」(1886)
「ドゥムカ」ハ短調 作品59 (1886) – 「ロシアの農村風景」という副題を持つ
1887 47才 Bolshoi Theaterで自身の指揮でopera Cherevichkiを初演し、成功する。
ドイツへ演奏旅行に出かける(翌3月帰国)。
奇想的小品(チェロと管弦楽のための) 作品62 (1887)
組曲(第4番)ト長調「モーツァルティアーナ (Mozartiana)」作品61 (1887) (4曲)
1888 48才

交響曲第5番(作品64)完成。バレエ「眠れる森の美女」(作品66)完成。
プラハではDovorakと会って親交を温める。
この際Leipzigで、かつての恋人デジレ・アルトーと旧交を温める。

Dovorakと会うのも楽しみだったと思うけど、デジレ・アルトー (Desiree Artot)と逢うのは20年ぶりで、本当に楽しみだったんじゃないかなー?

Six French Songs, Op. 65
 Symphony #5 In E Minor, Op. 64
交響曲 第5番ホ短調作品64
「眠れる森の美女」作品66 (1888年10月~1889年8月)
幻想序曲「ハムレット」 作品67a (1888)
1889 49才 ヨーロッパ各地で自作の演奏も行う。  
1890 50才 von Meck夫人から財政援助を打ち切られる。
「スペードの女王」 作品68 :st.Petersburgで初演。
「スペードの女王」 作品68 :st.Petersburgで初演。
1891 51才 アメリカに旅行、カーネギー・ホールのこけら落としに出演。
バレエ「くるみ割り人形」(作品71)作曲。
「イオランタ」 作品69 (1891)
「ハムレット」 作品67b (1891)
交響的バラード「地方長官」作品78 (1890-91)
1892 52才 世評を気にしがちなチャイコフスキーも「悲愴」だけは初演の不評にもかかわらず 「この曲は、私の全ての作品の中で最高の出来栄えだ」と周囲に語るほどの自信作だったようだ。 「くるみ割り人形」 作品71(1891年1月~1892年4月):Hofmann童話を題材にした
組曲 「くるみ割り人形」 作品71a (1892)
弦楽六重奏曲ニ短調 作品70 「フィレンツェの想い出(Souvenir de Florence)(1887-92)
1893 53才 8月交響曲第6番「悲愴」(作品74)を完成、10/23Moscowで初演。それから9日後の11月6日に急死。 死因には諸説があるが、後述するように現在ではコレラ及び肺水腫によるものとされている。
3ケ月後にVon Meck夫人も亡くなる。
18の小品 作品72 (1893)
ピアノ協奏曲第3番変ホ長調 作品75 (1893)

Sinfonie Nr. 6 h-Moll op. 74 (Pathetique) 交響曲 第6番ロ短調作品74「悲愴(Pathétique)」
 By Portland Youth Philharmonic David Hattner, Musical Director “
この他、後世の補筆による交響曲第7番変ホ長調「人生」がある。
Tchaikovskyはこれを破棄し第1楽章をピアノ協奏曲第3番に転用した後、悲愴の作曲にとりかかった。

Romeo and Juliet, Fantasy-Overture (1) (2) 未完の二重唱曲。同名の幻想序曲より素材を転用。