
一般的にはVocaliseが代表作みたいですが、 モリパパはSinfonie Nr.2 D-Moll Op. 27の第3楽章が大好きです。 何とも甘美なロマン派音楽の極みではありませんか?
ロシアノヴゴロド地方に生まれました。
敬愛する師、チャイコフスキーが世を去ったとき、追悼のピアノ三重奏曲『偉大な芸術家の想い出』を作曲したほどです。
ロシア革命(十月革命)を逃れアメリカに渡った。ピアニストとして名声を挙げ、作曲ができなくなった時「どうやって作曲するんです?メロディーがないと言うのに!わたしはもう何年も、ライ麦畠のささやきも白樺林のざわめきも聞いていないのですよ!」と言ったとか?。晩年故郷ロシアノヴゴロドへの思いを募らせながら、ビバリーヒルズで亡くなりました。
西暦 | 年齢 | 生涯 | 作曲 |
1873 | 0才 | 4/1(ユリウス暦3/20)、Novgorod州Semyonovo生まれ、同州オネグに育った。 | |
1874 | 1才 | ||
1875 | 2才 | ||
1876 | 3才 | ||
1877 | 4才 | 母から最初のピアノの手ほどきを受けた。姉たちのために雇われた家庭教師がセルゲイの音楽の才能に気がついたことがきっかけで、彼のためにペテルブルクからピアノ教師としてアンナ・オルナーツカヤが呼び寄せられ、そのレッスンを受けた。 | |
1878 | 5才 | ||
1879 | 6才 | ||
1880 | 7才 | ||
1881 | 8才 | ||
1882 | 9才 | 一家は破産し、オネグの所領は競売にかけられ、ペテルブルクに移住した。まもなく両親は離婚し、父は家族の元を去っていった。 | |
1883 | 10才 | 奨学金を得てペテルブルグ音楽院の幼年クラスに入学 | |
1884 | 11才 | ||
1885 | 12才 | 全ての学科の試験で落第するという事態に陥った。悩んだ母はセルゲイにとって従兄に当たるピアニストのアレクサンドル・ジロティに相談し、彼の勧めでセルゲイはモスクワ音楽院に転入し、ニコライ・ズヴェーレフの家に寄宿しながらピアノを学ぶことになった。 | |
1886 | 13才 | ピョートル・チャイコフスキーに才能を認められ、目をかけられた。モスクワ音楽院ではアントン・アレンスキーに和声を、セルゲイ・タネーエフに対位法を学んだ。後にはジロティにもピアノを学んだ。同級にはアレクサンドル・スクリャービンがいた。ステパン・スモレンスキイの正教会聖歌についての講義も受け、後年の正教会聖歌作曲の素地を築いた。 | |
1887 | 14才 | ||
1888 | 15才 | ||
1889 | 16才 | ||
1890 | 17才 | ||
1891 | 18才 | モスクワ音楽院ピアノ科を大金メダルを得て卒業した。金メダルは通例、首席卒業生に与えられたが、当時双璧をなしていたラフマニノフとスクリャービンは、どちらも飛びぬけて優秀であったことから、金メダルをそれぞれ首席、次席として分け合った(スクリャービンは、小金メダル)。同年ピアノ協奏曲第1番を完成させた | ![]() ![]() |
1892 | 19才 | 同院作曲科を卒業。卒業制作として歌劇『アレコ』を17日間で書き上げ、金メダルを受領。10/8モスクワ電気博覧会で前奏曲嬰ハ短調を初演、熱狂的な人気を獲得し、Rachmaninovの代名詞的な存在となった。![]() ![]() |
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1893 | 20才 | 5/9『アレコ』がボリショイ劇場で上演。11/6チャイコフスキーが亡くなる。追悼のため悲しみの三重奏曲第2番『偉大な芸術家の想い出』を作曲。![]() ![]() ![]() |
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1894 | 21才 | ボヘミア風奇想曲(ジプシーの主題による綺想曲) (op.12, 1894) | |
1895 | 22才 | サーヴァ・マモントフの主宰する私設オペラの第二指揮者に就任し、主に演奏活動にいそしんだ。 マモントフ・オペラではフョードル・シャリアピンと知り合い、生涯の友情を結んだ。 |
97年にはアレクサンドル・グラズノフの指揮によりペテルブルクで初演、記録的な大失敗。 |
1896 | 23才 | Rachmaninovはシャリャーピンを伴ってトルストイの自宅を訪ね、 交響曲第1番の初演以降に作曲した数少ない作品の一つである歌曲「運命」を披露した。 しかしこのベートーヴェンの交響曲第5番に基づく作品は老作家の不興を買い、 ラフマニノフはさらに深く傷つくことになってしまった。 |
楽興の時 (op.16,1896/1940) |
1897 | 24才 | ||
1898 | 25才 | ||
1899 | 26才 | チェーホフはRachmaninovの人柄と才能を称賛し、大きな励ましを与えた。 | |
1900 | 27才 | ピアノ協奏曲第2番ハ短調 (op.18,1900~01) その美しさでラフマニノフを代表する作品であり、クラシック音楽のなかでも最もポピュラーな作品の1つ。 映画『逢びき』、『旅愁』、『七年目の浮気』などで使用されたことでも知られる。 |
2台のピアノのための組曲第2番 |
1901 | 28才 | ![]() ![]() チェロ・ソナタ ト短調 (op.19, 1901) |
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1902 | 29才 | 従妹のナターリア・サーチナと結婚(当時、従姉妹との結婚には皇帝の許可証が必要) 結婚式の行われた4月に作曲した「12の歌曲集」作品21には妻に捧げた「ここは素晴らしい」 (第7曲)や、後に自身でピアノ独奏曲にも編曲した「ライラック」(第5曲) といった作品が含まれている。 |
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1903 | 30才 | 歌劇『けちな騎士』 (op.24,1903) 前奏曲集 (op.23, 1903) |
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1904 | 31才 | 06年まで、ボリショイ劇場の指揮者を務める。 | 歌劇『フランチェスカ・ダ・リミニ』 (op.25,1904) |
1905 | 32才 | ||
1906 | 33才 | 1月には自作のオペラ、『けちな騎士』と『フランチェスカ・ダ・リミニ』を初演した。 秋から1909年まで、家族とともにドレスデンに滞在 |
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1907 | 34才 | 交響曲第2番をドレスデン滞在中に完成させた。第3楽章の甘美なメロディーはとても有名。 翌年08年1月ペテルブルクで、2月モスクワで自身の指揮で初演。 |
悲しみの三重奏曲第2番(ピアノ三重奏曲)ニ短調 (op.9,1893/1907,1917) |
1908 | 35才 | ||
1909 | 36才 | 春にはスイスの画家、アルノルト・ベックリンの同名絵画の複製画に着想を得た 交響詩『死の島』を作曲した。 同年夏にはイワノフカの別荘で、秋に予定されていたアメリカへの演奏旅行のために ピアノ協奏曲第3番を作曲した。 (高度な演奏技術を要求されるピアノ協奏曲です) 交響詩『死の島』 (op.29, 1909):アルノルト・ベックリンの絵画「死の島」 のモノクロの複製画に着想を得て作曲した作品。何度も改訂されている。 |
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1910 | 37才 | ≪11月20日文豪トルストイ が亡くなる≫ |
前奏曲集 (op.32, 1910) 聖金口イオアン聖体礼儀 (op.31, 1910) |
1911 | 38才 | 練習曲集『音の絵』第1集(op.33, 1911) | |
1912 | 39才 | 10月のイギリスでの演奏旅行 | |
1913 | 40才 | ピアノ・ソナタ第2番変ロ短調 (op.36, 1913, rev 1931) 合唱交響曲『鐘』 (op.35, 1913):3人の独唱者・合唱・管弦楽のための作品。 エドガー・アラン・ポーの詩のコンスタンチン・バリモントによるロシア語訳に基づく。 |
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1914 | 41才 | 徹夜祷 (op.37, 1914-15):正教会のための奉神礼音楽 | |
1915 | 42才 | 「14の歌曲」op.34-14の終曲ヴォカリーズを作曲(Vocaliseとは歌詞がなく母音のみで歌われる歌曲のこと) | ![]() ![]() ![]() |
1916 | 43才 | ![]() :練習曲集『音の絵』第2集(op.39,1916-17) ![]() :レスピーギが5曲を抜粋して管弦楽に編曲している。 |
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1917 | 44才 | ロシア革命(十月革命)で家族とともにロシアを出る。 スカンディナヴィア諸国への演奏旅行に出かけた。しばらくはデンマークを拠点に演奏活動を行った。 |
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1918 | 45才 | 秋にアメリカに渡り、主にコンサート・ピアニストとして活動する。 | |
1919 | 46才 | ||
1920 | 47才 | ||
1921 | 48才 | ||
1922 | 49才 | ||
1923 | 50才 | ||
1924 | 51才 | ||
1925 | 52才 | ヨーロッパでの演奏活動も再開した。 | |
1926 | 53才 | ロシア出国後初の作品となるピアノ協奏曲第4番を作曲。 | |
1927 | 54才 | ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
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1928 | 55才 | ||
1929 | 56才 | ||
1930 | 57才 | ||
1931 | 58才 | スイスのルツェルン湖畔にセナールと呼ばれる別荘を建て、ヨーロッパでの生活の拠点とした。 「セナール (Senar) 」とは、セルゲイ (Sergei) 、ナターリア (Natalia) 、 ラフマニノフ (Rachmaninov) の頭文字を取ったものである。 Сенар (Senar)Switzerland |
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1932 | 59才 | ||
1933 | 60才 | ||
1934 | 61才 | パガニーニの主題による狂詩曲を作曲:実体は変奏曲の形態を取ったピアノ協奏曲。 第18変奏はRachmaninovならではの叙情性に溢れ有名。 |
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62才 | |||
1936 | 63才 | ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
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1937 | 64才 | ||
1938 | 65才 | ||
1939 | 66才 | 8月にはルツェルン音楽祭に出演し、エルネスト・アンセルメとの共演で ベートーヴェンのピアノ協奏曲第1番と自作の狂詩曲を演奏した。 |
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1940 | 67才 | ||
1941 | 68才 | 交響曲第3番イ短調 (Symphonic Dances, Op.45)を作曲。遠くロシアを離れながら、祖国を思う感情が濃厚な曲である。自作自演による録音も存在する。 | ![]() ![]() |
1942 | 69才 | 家族とともにカリフォルニア州のビバリーヒルズに移り住んだ。 左手小指の関節痛に悩まされながらも、演奏活動は亡くなる直前まで続けられた。 |
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1943 | 70才 | 3/28、70歳の誕生日を目前にして癌のためビバリーヒルズの自宅で死去した。 |
文中マークはウキペディアにある解説です。また
マークはYou Tubeに掲載された曲・動画で、新規タブで表示します。
表の中で緑色の文字はモリパパの個人的な書き込みです。