人生の”総仕上げ”

六十代、七十代の方へ これは、小説『新・人間革命』第25巻「共戦」の章 から抜粋したものです。
第1に、報恩感謝の思いで、命ある限り、広宣流布に生き抜き、信仰を完結させることです。
第2に、人生の総仕上げとは、それぞれが、幸福の実証を示していく時であるということです。
第3に、家庭にあっても、学会の組織にあっても、立派な広宣流布の後継者、後輩を育て残していくということです。

人生の総仕上げとは

それから伸一は、山口開拓指導を共に戦った草創の同志に語りかけた。
「当時、四十代、五十代であった方々が、今は六十代、七十代となり、人生の総仕上げの時代に入った。したがって、“総仕上げ” とは、いかなる生き方を意味するのか、少しお話させていただきます」

 

信心には引退はない

「先ほども申し上げましたが、第一に、報恩感謝の思いで、命ある限り、広宣流布に生き抜き、信仰を完成することです。 正役職から退くことはあっても、信心には引退も、卒業もありません。
“去って去らず”です。

そうでなければ、これまでの決意も誓いも、人に訴えてきたことも、結局は、全て嘘になってしまう。後退の姿を見せれば、多くの後輩が失望し、落胆します。

そして、それは、仏法への不信の因にもなっていきます。 『受くるは・やすく持つはかたし・さる間(あいだ)・成仏は持つにあり』(御書p.1136)と大聖人が仰せのように、最後まで、いよいよ信心の炎を燃え上らせていくんです」 草創の同志たちは誓いを新たにしながら、山本伸一の言葉に耳を澄ましていた。

「学会員は皆、長年、信心してきた先輩たちが、どんな生き方をするのか、じっと見ています。ゆえに、学会と仏法の、真実と正義を証明していくために、幹部だった人には、終生、同志の生き方の手本となっていく使命と責任があるんです」

 

加齢による衰えは自然の摂理

もちろん、年とともに、体力も衰えていくでしょう。足腰も弱くなり、歩くのも大変な方も増えていくでしょう。

それは、自然の摂理です。恥じることではありませんし、無理をする必要もありません。ただ、どうなろうとも、自分なりに、同志を励まし、法を説き、広宣流布のために働いていくんです。

また、体は動けなくなったとしても、皆に題目を送ることはできるではありませんか!
先日、草創期から、頑張り抜いてきた高齢の同志が亡くなりました。最後は癌で療養していましたが、見舞いに訪れる学会員に、学会活動ができる喜びを教え、命を振り絞るようにして、激励し続けたそうです。 やがて、臨終が近づいた時、薄れゆく意識の中で、盛んに口を動かしている。家族が耳を近づけてみると。『きみも、信心、しようじゃ、ないか』と言っている。

夢の中でも、誰かを折伏していたんです。 それから、しばらくして、うっすらと目を開け、また、口を動かすんです。今度は、題目を唱えていたというんです。
息絶える瞬間まで、法を説き、唱題し抜こうとする様子を聞き、私は感動しました。

まさに、広宣流布に生き抜いた、荘厳な、美しい夕日のような、人生の終幕といえるでしょう。 そこに待っているのは、美しき旭日のごとき、金色に包まれた未来世の幕開けです。生命は永遠なんです。」

伸一は、敬愛する草創の同志たちに、真の信仰者として、この世の使命を果たし抜き、人生を全うしてほしかった。仏法者としての勝利の旗を、掲げ抜いてほしかった。 山本伸一は、決意を促すように、草創の同志を見つめながら。話を続けた。 「日蓮大聖人は『須(すべから)く心を一にして南妙法蓮華経と我も唱え他をも勧めんのみこそ今生人界の思いで鳴るべき』(御書p.467)と言われています。

つまり、一心に唱題と折伏に励み抜いていくことこそ、人間として生まれてきた、今世の最高の思い出となると、御断言になっているんです。 私たちは、人間として生まれたからこそ、題目を唱え、人に仏法を語ることができる。
一生成仏の千載一遇のチャンスを得たということです。ゆえに、地涌の菩薩として、今世の使命を果たし抜いていくんです。」

皆、真剣な眼差(まなざ)しで、伸一を見ていた。彼の声に、ますます力がこもった。

 

幸福の実証を示すとき

第二に、人生の総仕上げとは、それぞれが、幸福の実証を示していく時であるということです。
“私は最高に幸せだ。こんなに楽しい、すばらしい人生はない”と、胸を張って言える日々を送っていただきたいんです。」

 

心の財こそ真の所願満足

「しかし、それは、大豪邸に住み、高級料理を食べ、贅沢な暮らしをするということではありません。

欲望を満たすことによって得られる『欲楽』の幸福というのは、束の間にすぎない。相対的幸福だからです。 たとえば、念願叶って、百坪の家を手に入れたとします。
しかし、『欲楽』ばかりを追い求めていれば、千坪、二千坪の大邸宅を見ると、欲しいと思うようになるでしょう。
そして、それが手に入らないと、かえって、不満や不幸をかんじることになってしまう」 信心の功徳を実感するうえでも、信仰の一つの実証としても、「蔵の財」「身の財」は大事である。

しかし、財産は使えばなくなるし、災害などで一夜にして失ってしまう場合もある。また、優れた体力も、高齢になれば衰えていかざるを得ない。
本当の幸福は、時代の激変にも、時の流れにも左右されることない、「心の財」を積んでいくなかにこそあるのだ。

日蓮大聖人は。「此の経の信心を致し給い候はば、現当の所願満足有る可く候」(御書P.1242)と明言なさっている。 真の所願満足は、金銭や財産を追い求めるなかにあるのではない。

欲望に振り回されることのない、少欲知足の心豊かな境涯が確立されてこそ、至る境地といえる。つまり、「心の財」のなかにこそあるのだ。

イタリア・ルネッサンスの知性アルベルティは、「どれをとっても魂の財産より好ましいものはない」との警句を残している。
山本伸一は、ユーモアを交えて語った。 「年をとれば、多くの人は、年金生活になり、経済的には質素にならざるを得ないかもしれない。
でも、お金があり余るほどあったら、何を買っても、喜びは半減します。
食事だって、毎日、高級なステーキばかり食べていたら、すぐに飽きてしまいますよ。それに偏食になって、体にもよくない。 また、大豪邸になんて住まなくても、いいじゃないですか。
人間が寝るところは、畳一畳なんですから。間数は少ない方が掃除も楽です。服だって、何百着も持っていたら、選ぶのが大変ですよ。少ないからいいんです。」どっと笑いが起こった。

 

『心の財』は『法楽』

「『心の財』『身の財』は、所詮は、この世限りです。
『心の財』は、未来世にまでもわたる財であり、しかも無限です。 『心の財』は、『欲楽』に対して『法楽』と言い、仏の悟りの法を求めることによって得られる楽です。

つまり、信心によってのみ得られる幸せなんです。 『法楽』は、生命の中から、泉のごとく湧きいずる幸福であり、環境の変化などによって崩れることのない幸福です。
戸田先生は、それを『絶対的幸福』と言われていたんです」 戸田城聖は、1956年(昭和31年)5月3日の春季総会で次のように述べられている。
「絶対的幸福というのは、どこにいても、生きがいを感ずる境涯、どこにいても、生きている自体が楽しい、そういう境涯があるんです。腹の立つことがあっても、愉快に腹が立つ」 日蓮大聖人は、極寒に目を責められ、食べる物も、着る物も乏しく、命をも狙われていた流罪の地・佐渡にあって、門下に宛てた御手紙に、こう記されている。
「流人なれども喜悦はかりなし」(御書p.1360) 初代会長・牧口常三郎もまた、軍部政府の弾圧によって獄に繋がれながら、看守を折伏し、取り調べの場で価値論を説き、家族らに励ましと指導の葉書をお切り続けている。
その葉書には。「何の不安もない」とある。また、検閲によって削除されているが。「心一つで地獄にも楽しみがあります」とも記されている。 幸福は、最終的には、環境条件によって決定づけられるものではない。

幸福は、どこにあるのか。自身の胸中にあるのだ。心の宮殿のなかにあるのだ。その宮殿の扉を開けるカギこそが、信心なのである。

 

絶対的な幸福境涯の確立が真実の幸福

山本伸一は、話を続けた。
「人生の総仕上げにあたっては、生老病死など、無常の現象をありのままに見つめ、その奥底を貫く常住不変の妙法に則り、一途に絶対的幸福境涯の確立を目指して下さい。

豊かな『心の財』を得た幸福境涯というのは、内面的なものですが、それは、表情にも、言動にも、人格にも現れます。
その言動には、感謝と歓喜と確信があふれるものです。そして、おもいやりに富み、自分の我を貫くのではなく、皆のために尽くそうという慈愛と気遣いがあります。
さらに、人々の心を包み込むような、柔和で、朗らかな笑顔があるものです。
また、幾つになっても、向上、前進の息吹があり、生命の躍動感があります。ゆえに大聖人が『年は・わか(若)うなり』(御書p.1135)と仰せのように、若々しさを感じさせます。

一方、愚癡、文句、不平、不満、嫉妬、恨みごとばかりの人もいます。それは、自分の不幸を表明しているだけでなく、ますます自分の不幸を増幅させています。」
真実の幸福である絶対的幸福境涯を確立できるかどうかは、何によって決まるか。
— 経済力や社会的な地位によるのではない。学会における組織の役職いかんでもない。

ひとえに、地道な、信心の積み重ねによって、人間革命を成し遂げてきたかどうかにかかっている。 フランスの思想家ルソーは断言している。 「ほんとうの幸福の源はわたしたちの自身のうちにある」

 

広宣流布の後継者、後輩を育て残すことが総仕上げ

山本伸一は、人生の総仕上げの意味について、さらに語っていった。

第3に、家庭にあっても、学会の組織にあっても、立派な立派な広宣流布の後継者、後輩を育て残していくことです。

家庭で、もし、お子さんが、しっかり信心を継承していないなら、お孫さんに、さらには曾孫さんに伝えていくんです。 お子さんがいなければ、甥や姪でもいいではないですか。

一族の未来のために妙法の火を消すことがなく伝え抜いていって下さい。そして、学会のなかでも未来部の子どもたちをわが子のようにかわいがり、信心を、しっかり継承させていってください。」

 

人材育成の達人に

「また、組織の後輩を育て、守り、応援し、大事に育てていくようにお願いしたい。

学会の未来が盤石であるためには、各組織にあって、大鳥が陸続と巣立ち、羽ばたくように、若いリーダーが育っていかねばならない。
そのために、婦人部であれば、子育てや人間関係の悩みなど、若い婦人たちのさまざまな相談にのってあげてください。皆が自分の悩みを乗り越える希望がもててこそ、力を発揮することができるからです。
特に、入会間もない人などには、折伏や教学など、一つ一つ丹念に、信心の基本から教えてあげてください。
しっかり基本を身につけてこそ、人材として大成することができるからです。」

十分に手をかけ、真心を注いだ分だけ、人材は育つ。そして、人を育てることに勝る生きがいはない。
山本伸一は、未来を見すえるように、楽しそうに話を続けた。 「これから、県長などの幹部にも、草創期を戦い抜かれた皆さんより、十歳も、二十歳も若い人たちが登用されていくでしょう。さらには、三十歳下、四十歳下の人が、 各組織の中心者となっていく時代がくるでしょう。それが令法久住の流れです。 若いということは、さまざまな可能性をはらんでいるとともに、当然、未熟な面があります。先輩の皆さんが、そこをつついて、『力がない』とか、『私は、あの年代の時は、もっと頑張っていたのに』と言っているようでは駄目です。
また、『私に相談がなかった』とか、『聞いていない』などと、へそを曲げろようなことがあってはなりません。
批判するためではなく、応援するために、経験豊かな皆さんがいるんです」 先輩が立派であったかどうかは、後輩の姿に表れる。
したがって、先輩が後輩の未熟さを嘆くことは、自らの無力さ、無責任さを嘆いていることに等しい。

伸一は、少し厳しい語調で言葉をついた。 「先輩は菊作りであり、後輩は菊です。ゆえに、もし、組織の中心者になった後輩が、力をはっきできないとしたら、それは、先輩幹部が悪いんです。
先輩が後輩を育てもしなければ、全力で応援もしていないからです。
どうか、皆さんは、”後輩のリーダーは、私が守りぬく”との決意に立ってください。
たとえば、県長でも、ブロック長でも、新しい中心者が誕生したら、『今度の県長は、若いがすごい人だ!』『あのブロック長は、大変な人材だ。みんなでもり立てていこうよ』と言って、率先して応援していくんです。
そして、その中心者に、『どんなことでもやらせていただきますから、遠慮なく、相談してください』と言ってごらんなさい。 草創の大先輩が、こぞって、そう言って応援してくれたら、若い人は、どんなに活動しやすいか。

それが、真実の先輩幹部です。それが創価家族の世界です」 学会の各県区において、世代交代は、大きな一つのテーマになっていた。
山本伸一は、その模範となる伝統を、この山口県につくってほしかったのである。
伸一は、さらに語った。 「草創期に頑張ってこられた皆さんは、先輩たちから、厳しく叱咤激励されてきた経験をお持ちの方もいるでしょう。
しかし、人材の育成、教育の在り方は、時代とともに異なってきています。自分が受けた訓練を、そのまま後輩に行うべきではありません。

これからは、賞賛、激励、の時代です。努力を的確に評価し、褒め讃えていく。それが、勇気となり意欲を育んでいきます。
その場合も、一つ一つの事柄を、具体的に讃えていくことが大事です。また、賞賛のタイミングを外さないことです。 ともあれ、皆さんは、人材育成の達人になってください」 民衆詩人ホイットマンは、「自らが偉大な人を育てる。そして、偉大な人を育てられる人を育てていく……すべては、そこから始まる」と述べている。創価学会の未来永劫の流れも、そこから始まるのだ。

 

信心は、晩年が、総仕上げの時が大事

以下は『新・人間革命』第26巻激闘の章から抜粋しました

林田は、(中略)この一九七八年(昭和五十三年)の三月で定年退職し、新たな職場に勤め始めたところであった。

山本伸一は、林田を見つめて言った。  「日蓮大聖人は『月月・日日につよ(強)り給へ・すこしもたゆ(撓)む心あらば魔たよりをうべし』(御書p.1190)と言われています。
自分は、もう年だから、学会活動から少し身を引こうなどという心の緩みがあれば、そこから信心の後退が始まっていく。信心には定年はありません。
いかに幹部を経験したとしても、晩年、学会の組織から離れ、仏道修行を怠るならば、その人生は敗北です。
一時は華やかそうに見えても、最後は孤独であり、人生の充実も、生命の歓喜もありません。

信心は、晩年が、総仕上げの時が大事なんです。 生涯、若々しい闘将であってください。
要領主義の幹部など、悠々と見下ろしながら、最後まで、黙々と、堂々と、学会を支えてください。
そこに、真実の黄金の人生があります。あなたには、生涯をかけて、そのことを証明していってほしいんです」

伸一は、草創の同志には、真の信仰者の手本を示してもらいたかった。それが、後継の大河を開く力となっていくからだ。