日本の家族

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名古屋大学の加賀山茂教授は「日本の家族を知るためにどんな本を読めばよいかと尋ねられたら、私は躊躇することなくルース・ベネディクト『菊と刀』(Ruth Benedict, “The Chrysanthemum and the Sword – Patterns of Japanese Culture”,1946)を読むことを薦める」と言っています。

著者 Ruth_Benedict

「菊と刀」の出版は1946年(s21)。戦後間もな時期でした。日本ではs23年11月翻訳され、賛否両論を生んだようです。

Ruth Benedict自身は一度も来日経験がなく、反感を生んだのかも知れません。

しかし文化人類学者として極めて優秀で「菊と刀」の前に出版した「文化の型」も名著だったようです。

日本人の精神生活と日本文化の分析としては、実によくまとまった研究/論説だと思います。

第二次大戦中、米国情戦時情報局による日本研究がもととなっています。おそらくマッカーサー元帥も、日本を占領統治するに当り、これを読んだことだと思います。

マッカーサーの身になって考えてみたい。アメリカの日本占領目的は「日本国人民を欺瞞し、これを導いて世界征服の挙にでるような過誤を犯させた権力及び勢力の除去」にあったのです。

マッカーサーにとって天皇と新憲法をどうするか大問題だったはずです。天皇の玉音放送で一夜にして敗戦の屈辱に従った日本を見て、日本人の行動や文化、その背景にある特異な思考と気質を想ったでしょう。アメリカや西欧の文化とは類型を異にする日本文化を目の当たりににしたはずです。そういった点で、「菊と刀」は見事にこれを浮彫にしています。

日本文化には、特有の家族のヒエラルキー(階級制)があります。それは「あたかも地図の如くに精緻」だと断じています。
その家族ヒエラルキーは、家庭から国家に至るまで、日本の階層的な上下関係すべてに浸透し、馴染んでいると論じています。

アメリカの「自由と平等」を理念とする文化から見れば、日本人にとって自然な家族ヒエラルキーは、日本を理解するうえで、大きな壁だったようであります。日本の長い歴史的背景、とりわけ江戸時代の家長制度への理解が必要だったようです。

江戸時代、武士は一定の俸禄に依存する年金生活者のようであったし、農民はというと、土地にしばられ多額な徴税に縛りつけられ、商人や職人でも家業を長兄が受け継く暮らしを保ってきた。

日本では家族が社会の基本となり、この家長制度のヒエラルキーが敷衍して、国家の構造をも支えてきたのが戦前の日本でした。
特に、軍部や官僚によって国家ヒエラルキーをなしてきました。

一家の長は、ちょうど魚が水中に留まっているのと同じように、長兄としての性格を保つことを自然に振る舞ってきました。
家族は、各々にふさわしい地位に甘んずる階層的制度がごく自然だったのです。身近な家族からヒエラルキーが始まってました。

このような背景を持たないアメリカ人にとって、日本人のヒエラルキーは、異質で特異な文化に映ったに違いありません。
特に、男尊女卑は選挙や学校教育など公の場でも当たり前で、尚の事、普通の家族内で当たり前のように振る舞われてきました。

家族内では嫁姑の関係にもみられます。
しゅうとめは、かつて可憐なすみれであったとはとうてい思われないくらい断固たる態度で家庭内の一切の事務を切り回しすようになります。家族ヒエラルキーは嫁姑のなかでさえ見られます。

アメリカでは、家族のふところに戻って来た時には、形式的な儀礼は一切脱ぎ捨ててしまう。ところが日本では礼儀作法が学ばれ細心の注意をもって履行されて来たわけです。
アメリカ人にとってこのようなヒエラルキーが家族にあること自体が理解できなかったでしょう。

もう一つ理解が進まないものの一つに、義理などがありこれも論じています。特に「」についての議論は驚かされます。

を、オブリゲーションObligationと翻訳し、その角度で議論しています。私達日本人にとって、をオブリゲーションと訳すことに違和感を感じ、「は義務を背負った負い目ではない」と思うでしょう。

しかし、アメリカ人の目から見ればは債務であって、拘束がない愛や自由から見れば、は面倒なものなのかもしれません。
アメリカ人にとって愛や自由は、生きる規範となるものです。だからはDealing(取引)の範囲で捉えることになるのでしょうか?

とは負債であり、返済しなければならないものとなります。
貸方と借方の勘定を知らない者には、簿記が理解できないようにを理解する歴史的遺産を持たないアメリカ人には、この感情を理解することは難しいように思います。mononofubaka

またそのほか、日本には「敗北者の系譜」といった複雑で屈曲した文化的背景があります。ここでは割愛しますが、これもアメリカ人からみると、日本理解への壁となっているようです。

戦後、日本の家族は新憲法の下、大きく変化しました。教育も男女共学が当たり前になり、選挙制度も大きく変わりました。
そして現在では「」の意味も変化してしまいました。は殆ど意識されなくなり、結婚式や葬式にしか「〇〇家」は出てこなくなりました。形式的で戦前の残滓のようなとなりました。

結婚式も当人たちが主体となって行ない。葬式も家族葬や友人葬が定着し始め、墓の整理が話題になっています。今では、家族の儀式はなくなり、誕生会や入卒式などのお祝いがあるだけです。

そう、戦後75年という歳月は3世代にも及びます。家族ヒエラルキーは戦前のような在り方ではありません。まことに保守的な民法さえ改定され、「菊と刀」が描いた戦前日本からも、大きく変貌をとげました。いま「日本の家族」は戦前とは全く違います。

文化とか文明の本当の姿が見えないときは、どこかに補助線を引いてみることだと思います。たった一本の補助線ではっきり解がみえてくるものです。その補助線として「菊と刀」の役割はいまも大きいと思います。