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静岡・伊豆の旅

今月、阪急交通のミステリーツアーに参加した。おまかせツアーと思って気楽に参加したので、何処に行くのか新千歳空港で搭乗券を貰うまで、行き先はわからなかった。
行き先は富士山静岡空港だった。降り立ってバスに案内されるままに旅行が始まった。最初に湧水で有名な三島 柿田川に着いた。

着いたホテルは伊豆の熱川温泉オーシャンリゾートでした。目の前に伊豆大島、利島、新島、式根島まで薄っすらと見渡せます。

 

中秋の月夜で、なかなかきれいな月夜でした。次の日の朝、伊豆大島の左から5時に朝日がきれいでした。Orcian Viewが素敵なHotel 熱川OrcianResortでした。Orcian Viewは良いですね。

熱川OrcianResortから、伊豆大島の左から朝日が昇った。思わずシャッターを切った

次の日も案内されるままに、バスに乗り着いたところは大室山おおむろやまでした。大室山は上空から見ると円錐形で山頂は歩いて一周できるそうです。坐骨神経痛でリフトで登って降りただけで我慢した。

次に、バスに乗って着いたところが下田の街です。ペリーが黒船に乗って来た下田です。幕末明治の歴史好きな者にとっては良い観光スポットでした。今はペリーロード(散策道)なっています。

吉田松陰と聞けば何としても見ておかねばと、暑い日差しの中、探しに探して辿り着いた「吉田松陰拘禁の跡」でした。
なんと現在の裁判所の隣りに有った。今もさばきの横にあった。

伊豆は暑い。10月でも夏の日差しです。そんな中、石廊崎灯台へ

この日、最後の観光スポット、天城越で有名な浄蓮じょうれんの滝に着いた頃は、ヘトヘトでもう写真も そこそこにバスの中で居眠りしていました。


ホテルは天城高原ハーベストリゾートで一泊。翌朝霧の中は幻想的。標高900mもあるので涼しいを通り越して少し肌寒かった。

さて、次は韮山の反射炉。世界文化遺産に明治の産業革命遺産として登録(2015年7月)された。面白いものを見させてもらった。大砲を作る気合はあったが、あまり役に立たなかったようだ。

次は富士宮の浅間神社だったが、これはパスして富士山世界遺産センターを見て回った。そして清水港で昼食。
静岡の駿府城の見学は初めてだったが、こりゃ風格があった。

大政奉還後の徳川慶喜が駿府に戻ったときは、入城も許されす隠居の身として蟄居させられた。その場所が今も浮月楼として料亭となって残っている。さすが予約無しでは入れないので写真だけにした。御家人の駿府移住は悲惨だった。牧之原を開拓した。


牧之原の下を流れる大井川は江戸時代 架橋禁制だったが、明治に入って牧之原と駿府を結ぶ橋をけた。蓬莱橋ほうらいばしとして今は観光になっている。これでツアーを終え富士山静岡空港へ向かった。

蓬莱橋は明治12年に大井川に架けられた木造の橋で長さは897.4 m木造歩道橋として世界一だそうだ。

最終日、静岡は29℃近くの暑さで、北海道に帰宅したら8℃ほどで寒かった。20℃もの気温落差でその後風邪を引いてしまった。

駆けめぐるようなツアーに参加して疲れていたせいもあるだろうが年齢としを感じた。

 

時代の潮目

2025年10月10日は恐らく記憶に残る日になった。一つには公明党の連立離脱した日で、もう一つは石破首相 戦後80年の談話だ。

公明党が自民党との連立を離脱し、自民と袖を分かつことになった。予想より、大きな波紋を呼びトップニュースになった。報道では、次期衆院選では自民も公明も、ともに厳しい状況になると解説している。公明党員からすれば、溜飲が落ちたような気がしてスッキリした。

退陣表明した後の石破首相の「戦後80年によせて」とした談話も中継で報じられたが、公明の連立離脱のトップニュースに隠れてしまった印象だった。

「なぜあの戦争を避けることができなかったのか?」と歴史認識をひもとき「我が国が戦後最も厳しく複雑な安全保障に置かれている今」と結んでいる。今現在の最高機密を知っている首相の発言だからこそ、その発言は重みがあり、重大だ。

この二つのニュースは、両者とも時代の潮目に当たって、もう我慢できないところまで来て一挙に表面化したような気がした。
こういった不思議なタイミングで新しい時代がやってくるものかも知れない。 

勘ぐる訳では無いが「いま新しい戦前」を感じてしまう。断じて平和を守らなくてはならない。断じて戦争を引き起こしてはならない。我々庶民が出来ることは、扇動的な言辞に惑わされず、メディアの何が本質か見破り、選挙で一票を投じることにある。

 

三世師弟の縁、厚田

1977年10月1日に厚田の望来もうらいに戸田記念墓地公園が開園された。48年前のことだ。当時のことは新・人間革命第26巻の厚田の章に詳しい。

戸田先生の像は、はるかブッダガヤ(インド)に向かって、世界広布に立っている。

戸田先生と池田先生が共に初めて厚田を訪れた1954年8月10日は今から71年前でした。戸田先生53才池田先生26才の時です。その時、SGI世界広布を戸田先生は池田先生に託された。以来、池田先生の舞台は世界広布と決まった。

初めて創価学会の墓地公園が厚田に出来ると発表されたのは1974年のこと。正式決定を見たのは翌年(1975年)9月で、翌年1976年10月には着工され、その翌年1977年10月1日に開園されました。

開園のとき池田先生は「師弟の儀式」と位置づけられ「私にとって『心の故郷ふるさと』であります」と仰っています。「皆さんも苦しい時、辛い時、行き詰まった時には、この地を訪れて墓参し唱題して、恩師の心を我が心として、蘇生し帰って下さい。生死不二、師弟不二の旅を」と挨拶されています。

基本理念

  • 恒久性
  • 平等性
  • 明るさ

墓園には生死観が現れるし、本来そこには基本となる思想がある。この創価学会の基本理念が、初めて示されたのが厚田の戸田記念墓地です。この墓地公園を”人間蘇生そせいの憩いの広場”と意義づけられました。

いくつかの御書が引用されて、
その基本理念を紹介されている。

いきてをはしき時は生の仏・今は死の仏・生死ともに仏なり、即身成仏と申す大事の法門これなり、法華経の第四に云く、「若し能く持つこと有れば即ち仏身を持つなり」云云。
  上野殿後家尼御返事
 
まず 臨終の事を習うて 後に他事を習うべし 
妙法尼御前御返事(臨終一大事の事)
 
けわしき山、あしき道、つえをつきぬればたおれず。殊に手をひかれぬればまろぶことなし。南無妙法蓮華経は死出の山にてはつえはしらとなり給え。釈迦仏・多宝仏・上行等の四菩薩は手を取り給うべし。 弥源太殿御返事
 
日蓮さきに立ち候わば、御迎えにまいり候こともやあらんずらん。またさきに行かせ給わば、日蓮必ず閻魔法王にもくわしく申すべく候。 弥源太殿御返事
 
滞り無く上上じょうじょう品の寂光じゃっこう往生おうじょうを遂げ、須臾しゅうゆの間に九界生死の夢の中にかえり来って 三世諸仏総勘文教相廃立(総勘文抄)
 

老とは終局を待つ日ではない。今世の人生の総仕上げであるとともに、次の人生への準備期間なのである。 (中略) わが生命を磨き高め 荘厳な夕陽のごとく 自身を完全燃焼させながら 大歓喜のなかで この世を生き終えるのだ。(池田先生の指導から)

「荘厳な夕陽のごとく」支笏湖に夕日が沈んでいく光景

最近、”死”を考えるようになった。市井しせいの哲学者としてして知られる三木みききよしの「人生論ノート」の最初は「死について」です。

彼は「墓場をフリードホーフ(平和な庭)と呼ぶことが感覚的な実感をぴったり表していることを思うようになった」と言ってる。また「最上の死はあらかじめ考えられなかった死である」とも言う。

仏法上の死は、生死の死である。生きること死ぬことではない。生死としての”生”のあり方であり”死”のあり方である。”生”も生命であり、”死”も生命いのちのあり方で、生死の二法と説いている。

生死観からみた”死”について考えるようになった。虎や熊は死んで皮を残す。人は死んで師弟を残したい。実に何を残すか難しいといです。更に、どんな師弟に続くかで人生は決まってしまう。

三世さんぜ師弟していえにしを残そうと心に決めた。そんな折、厚田戸田記念墓園の新規募集を聖教新聞(9/5)で見た。不思議なもので丁度、妹と甥が北海道旅行に来て、厚田の戸田記念墓園を見たいという。

2025年10月2日に墓園で墓地購入手続きをした。奇しくも48年前の10月2日開園式が行われた日であった。SGI世界広布の原点を記念する日である。 桜の葉が少し紅葉し始めた晴天であった。

Aの7区は一部墓石が無く、ここが新規募集の区域
販売区域A-7(矢印)に購入を申込んだ。

無事、A-7区への申込み手続きを終えて、道の駅 厚田あいロードに立ち寄って夕陽を見ようと思ったが、まだまだ陽が高かった。

小樽、積丹半島の先に夕陽が沈む(石狩灯台から望む)

そこで石狩灯台から荘厳な夕陽を見て、札幌に向け帰途についた。なぜか気持ちが落ち着き、御書の一節がふと心に浮かんだ。

在々諸仏土ざいざいしょぶつど常与師俱生じょうよしぐしょういたるところの諸仏の土に、常に師とともに生ず」、
よも虚事そらごと候わじ。 生死一大事血脈抄

 

老人の関寛斎

老人の関寛斎を訪ねて陸別へ行ってきた。関寛斎については何度かこのブログで紹介したが、改めて簡単に紹介しておきます。

東金の壮年 関寛斎の像

まだ、蘭語のフェレヘイドVrijheid(自由)の意味を理解できなかったころの時代だった。
幕末から明治の大変革期を生き抜いた一人の医師がいた。関寛斎その人である。

佐倉順天堂で佐藤泰然に師事し、長崎の医学伝習所のポンペPompeもとで西洋医学を学んだ。科学的な医学を修め、人道的な医療を志した。

戊辰ぼしん戦争では、官軍の病院長として敵味方を問わず治療に当たった。そして山梨の病院長を1年務めたのち、徳島で一町医者となり開業した。貧しい人々には無償診療をおこない庶民に敬愛され、慕われた。

北海道・陸別町にある関寛斎の像

こんな自由な生き方をした人は、当時ほかに居なかったであろう。

ところが72才にして北海道開拓を決断し、40年近く住んだ徳島から一家を引き連れて、札幌、石狩樽川農場、更に斗満トマム原野へ向った。

74才のとき妻あいを札幌で亡くし、災害に牛馬をほとんど失い、斗満トマム原野に再起するハメに陥ったこともあった。苦労が絶えない斗満トマムの開拓だった。そして入植10年目、82才のとき服毒自殺して亡くなってしまった。

関寛斎(白里) 晩年の詩

  • <壮年者に示す>
    口に言い文にもかけど行いの
    足らざる人の行く末を見よ
    八十二才老白里
  • <農業>
    白金や黄金の宝積むよりも
    耕す人のこころ貴き
    八十二才老白里
  • <感ずるまゝ>
    憂き事のなほ来たりませ露の身の
    志たたり落ちて消えうせるまで
    八十三才老白里
  • <我家>
    遠く見て雲か山かと思いしに
    帰ればおのが住居なりけり
    八十二才老白里
  • <創業>
    九とせを過ぎにし初め人問わば
    夢と答えん一家の月
    八十二才老白里
  • <祈りにふれて>
    幾度か破れ破れて斗満原
    身は空蝉に心成仏
    八十二才老白里
  • <死後希望>
    我が身おば焼くな埋むなそのまゝに
    斗満の原の草木肥せよ
    八十三才老白里
  • <辞世>
    諸ともに契りし事も半にて
    斗満の里に消ゆるこの身は
    八十三才老白里

陸別の関寛斎資料館の方に、なぜ服毒自殺したのか尋ねてみた。

一説には息子又一と意見の相違などが原因。そのほか世情が自分の考えと大きく変わってしまい失望したとのこと。
いずれにせよ本当の理由は分からないということです。

それでは、ミステリーと言うことにした。

自殺は絶望である。それも人生最期に絶望するのは不幸である。

この一点だけが関寛斎「九仞きゅうじんの功を一簣いっきく」ことになった。

…されど自殺はいかん。敬愛する哲人が自殺について述べている。「この肉体というものは、法のうつわともうしまして、仏からの借り物になっております。勝手に壊してはならない」と力説してます。

上記のうたが書かれた短冊(自筆)、関寛斎資料館にて
司馬遼太郎の石碑の奥に関寛斎像


司馬遼太郎の石碑の奥に関寛斎の像がある司馬遼太郎は、この寛斎の生き方に強い関心を持って描いている。「胡蝶の夢」「街道をゆく15 北海道の諸道」などに詳しい。

司馬遼太郎も陸別を訪問されていたようだ。

私事ながら、自分も73才で身内も頼る者もいない北海道に一人転居したので、この老人の関寛斎に関心があったし愛着を感じていた。

もちろん時代も違うし、寛斎ほど立派な業績もない。動機も違う。
「さぁ北海道の新生活を楽しみにと期待を抱いて北海道生活を始めた程度のこと」であった。

一寸気楽な気持ちで陸別を訪問し半分物見遊山だったたせいでしょうか? 陸別に泊まった夜は、北海道では珍しく激しい豪雨に見舞われ、深夜に閃光と雷鳴に何度も起こされてしまった。

翌朝、何とか晴れ間が出たが、豪雨災害で根室本線は一部不通となり、代行バスで5時間遅れで疲れきってやっと帰宅しました。

 

マオイの丘

馬追原野の碑

長沼町の小高い丘陵の上に人知れず建てられた記念碑がある。

道の駅”マオイの丘”は誰もが知ったところだが、この記念碑に足を踏み入れる人は少ないだろう。記念碑は”辻村もと子の文学碑”です。

そして、ここから眺める景色即ち石狩平野を一望する景色は絶景、素晴らしい。

辻村もと子という小説家を知らなかったので、代表作「馬追マオイ原野」を読んでみた。

小説の主人公:秋月運平は辻村の父直四郎がモデルとなっている。明治20年ころの初代の開拓者たちの時代を描いている。
馬追マオイ原野」は、辻村が37才(S17年)のときの著作です。だが辻村は腎臓を患っていて、40才で早逝しました。

辻村は「馬追原野」で原野の光景・情景を見事に表現しています。

雨雲が夕陽に追われるように足早に東に流れていって、みるみる現れた青い空が広くなってゆく、手足まで染まりそうな緑だ。葉にたまった露が、いっせいに緑に、金色に光り輝く。まるでその露の宝玉は、人間の耳には聞きわけられぬ微妙な音楽を奏してでもいるかのようだ。説明のつかぬ一種の歓喜が心を浸し、秋月は、その荘厳な日輪の饗宴のまえに、原始人のように礼拝したくなった。
 
強欲な冬の力に反抗するかのやうに、時折、ぱぁっと、明るい名残の日差しが顔をだすのだが、その光は明るい割には弱々しく、すぐ灰色の雲に押しのけられて、ガラス屑のような硬いこまかな雪片が風と一緒に横なぐりに野面をおほってしまふ。
馬追の開墾地の人々は、まだ畑に掘り残してあった馬鈴薯の残りを、総がかりでで小屋に運んでいた。
 
雪が、いちはやく痩せていき、冬中の馬糞を溶かしてあめ色のざらめのようにジャリジャリしはじめる。街の西南をめぐる山々は、うっすらと、もやにかすんで、針葉樹のみどりまでが、いくらか生気をおびてきたようだ。傾斜のはげしいまさきぶき屋根すべっては、かたまった雪が、ときおりざあっと大きな音をたて、軒先に落ちてくる。

今、馬追マオイに原野はありませんが、馬追マオイ近くの恵庭に住んでると、辻村が描いたような圧倒する情景を目にすることがあります。

早朝、太陽が昇るときマオイの丘が見える。さらにその向こうに夕張岳が見える。
恵み野の街にかかる虹、虹の向こうはマオイの丘になる。
西に沈む夕陽(恵み野にて)はるかに札幌岳の稜線を望む。

北海道の景色、この絶景には詩人でなくても画家でなくても感動します。ときおり拙宅から絶景を見て感動することがあります。

北海道の開拓は代を重ね、今では初代の開拓時代は昔の物語となりましたが、風土は昔と変わりません。本州では味わえません。少し北海道に馴れてきましたが、それでも北海道の大自然の広大な美しさに圧倒されています。