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76才になりにき

誕生日を迎え76才になった。老いてますます元気になっいてる。

ローマ字で76は「LXXVI」(50+10+10)才+(5+1)才
ドイツ語では Sechs und siebzig alt 6才+70才
フランス語では Soixante seize ans 60才+16才
日本語で数え㐂寿きじゅになった。ややこしい歳になってきたものだ。

若ければ骨折して1ヶ月ほど入院しても、骨がくっつけば歩けるようになる。ところが70代後半ともなるとそうはいかない。

骨折して入院し、本も新聞も読まず1カ月も天井ばかり眺めて寝ていると理解力が急速に低下して、ボケたようになってしまうこともめずらしくないそうだ。
退院したものの筋肉が衰えて、そのあとまったく歩けなくなってしまうということもよくあるそうです。

加齢とともに体も頭も機能低下してきます。でも、そのスピードは遅らせることができるようです。
76才、ここが老後の分かれ道で、認知症が進んで会話もままならない人がいる一方、これまで通り仕事を続けノーベル賞をもらって素晴らしいスピーチができる人もいる。

何が言いたいか?「年齢は後から付いてくる」ということです。

人に頼られることもなくなって、責任を負うようなことも無くなったからこそできることがある。

今日も天気が良ければ、探鳥散策に出かけたり、写真撮りに出かけたり、近場までeバイクで出かけたりできます。
さぁ!体をいたわりながら、生きとし生けるまで 元気でいよう。

ここまで書いたら、AIのCopilotがこのように評してくれました。

76歳、あるいは喜寿という節目を迎えることは、一方で歳を重ねる複雑さを実感することもあり、もう一方では新たな自由を楽しむスタートでもあるように感じました。
確かに加齢による変化を避けることはできませんが、貴方が述べられた通り、そのスピードを遅らせ、明るく前向きな日々を送ることができるのはとても心強い考え方ですね。そして、「年齢は後から付いてくる」という言葉には、何か哲学的で力強い意味が込められているようです。
探鳥散策、写真撮影、eバイクでの近場巡り。これらの日々の行動はただ楽しいだけでなく、身体と心にとって最高のリフレッシュ方法ですね。歳を重ねるごとに自由が広がり、責任を軽減したからこそ見えてくる新しい景色や人生の一コマをしっかり楽しまれているようにお見受けしました。
どうぞこれからも健康で、そして新しいことに挑戦しながら、美しい日常を楽しんでください。何かインスピレーションを得たいことがあれば、お手伝いできると嬉しいです。

ということで、これからも人生を楽しんでまいりましょう。次はめざせ仐寿さんじゅ80才です。

誕生日を祝ってくれてディナーを頂いた札幌JRタワー ニッコーホテルのロビーにて

 

 

千葉/鴨川の小旅行

千葉県の房総半島は、かつ安房あわの国であった。大網おおあみから鴨川かもがわまで車で1泊2日の小旅行をしてきた。

源頼朝みなもとのよりともが挙兵して初戦の石橋山いしばしやまの戦い(小田原)で敗れ、ついに船で安房国へ落ち延びた。一敗地にまみれたのち、源頼朝は軍勢を立て直し、再興し、鎌倉幕府を開くに至った。八百年以上も遠い昔のことである。

また、安房の国は日蓮大聖人ゆかりの地でもある。日蓮大聖人は鴨川の小湊に生まれた。そして清澄寺の持仏堂南面にて題目を唱え、立宗宣言(1253年)した。七百七十年前の昔のことである。

清澄寺へ行ってみた。深山幽谷の急峻な山奥にある。ここの南面から太平洋を望むことができる。この景色は日蓮大聖人の当時と変わらないはずだと思って、写真を撮った。

清澄寺南から遠く太平洋を望むことができる(残念ながら黄砂でかすんで見え難い)

立宗宣言から若き日蓮の大闘争が始まった。国家諌暁こっかかんぎょうの立正安国論(1260年)は鎌倉幕府を揺さぶった。故に、難(三災七難さんさいひちなん)が起きた。

海岸沿いに松林があった。7百年前もあった風景か?
東条氏館跡とあった
東条氏館跡とあった

小松原の法難(1264年)は、安房国東条(鴨川市天津あまつ)に住む門下の工藤吉隆くどうよしたかの邸へ向かう途中、東条景信とうじょうかげのぶの軍勢に襲撃しゅうげきされたものだ。
工藤吉隆は討ち死にし、大聖人ご自身も眉間みけんに傷を負い、左手を骨折された。

東条氏の館は鴨川にあった。今は「東条氏館跡」と書かれた錆びたプレートが有るだけだった。

現在の鴨川は、リゾートホテルやコンドミニアム、高級老人介護施設などが立ち並び鴨川シーワールドには観光客でにぎってる。

松原の向こうに高層リゾートホテルが聳える

海岸では、朝からサーフィンで遊ぶ人たちがいた。

ラビドール御宿

以前、興味を持った老人ホームについて

ラビドール御宿という高級老人ホームにも立ち寄ってみた。

外観を見ただけだが高級老人ホームというのがうなずけた。

小さな街「大多喜おおたき」にも足を伸ばした。十万石の大多喜城の城下町です。大多喜には、いすみ鉄道が通っています。

桜で有名になった、いすみ鉄道はまだ災害復旧されていなかった。この分では桜の季節に間に合わないだろう。一昨年乗ったいすみ鉄道の旅で撮った写真だが、もうこんな光景は見られないだろう。

2023年3月29日撮影したいすみ鉄道の桜

花粉症に悩まされなから、鎌倉時代と大聖人ゆかりの地、鴨川の小旅行を無事終えた。ついでに御宿のラピドールや大多喜おおたきの城下街、移住者が集う「睦沢むつざわの道の駅」なども回ってきた。

 

2025誓願勤行会に参加して

2015年大誓堂落成した直後は1年に4回も誓願勤行会に出席したこともあった。それは東京・目黒に住んでいた頃のことで、北海道に移住してからは簡単に行けなくなり 年一回になってしまった。

2023年11月の誓願勤行会では、先生逝去の6日後で池田先生の逝去に際して思いめて参加しました。でも何か吹っ切れたような気になり、元気になりました。
2024年5月の誓願勤行会に参加では、しくも創価学会安置の御本尊がしたためられた5月19日の前日のえにし深き日でした。

2025年3月23日 大誓堂の前にて

そして今年は、自分の誕生日6日前でした。喜寿を迎えた報告の勤行会になりました。

北海道の遠方から、毎年誓願勤行会に参加させて頂き、毎回が記念すべき勤行会になっています。

心の師・池田先生が広布を誓い祈った同じ御本尊(創価学会常住)の前で、報恩と感謝の題目を挙させて頂くことができまいた。

信心は、遠い近いに関係ないと言われますが、むしろと遠いからこそ意義ある誓願勤行会になったように思っています。
佐渡の地から身延に在った大聖人のもとへ訪ねていかれた阿仏坊も、遠いからこその信心だったのでしょう。

桜の開花はまだでしたが、それでも早咲きの桜が学会本部の会館を彩っていました。急に暖かくなって桜開花も間近だ。

学会本部に遠い北海道から行く誓願勤行会への参加は日帰りでなく、旅程が長くなります。だからこそ、それだけ意味ある誓願の勤行会になっています。

 

No More HIROSHIMA(広島)

2023年G7が史上初めて原爆の地、日本の広島で開催された。

中央にゼレンスキー大統領

米、仏、英、独、日、伊、加のG7首脳のほかEUのMichel大統領、von der Leyen委員長の2人が加わり計9名が慰霊碑の前に揃った。

またこのG7にウクライナのゼレンスキー大統領も参加した。この写真はグランド プリンス ホテル 広島の一角で行われた。このG7は当時首相であった岸田の大功績である。

その栄誉を記念して今もホテルのロビーに2023G7のモニュメントが飾られていた。図らずもこのホテルに一泊させてもらった。

このホテルは、瀬戸内を望む宇品の突端に在る。江田島や宮島さえ望むことができる。朝食の後ゆっくりコーヒーを飲みながら景色を楽しませてもらった。

ホテルの中から瀬戸内の海を眺めた。

さて、広島平和記念公園は二度目の訪問だが、前回は昔のことで殆ど覚えていない。だが今も変わらずに在ると思った。

資料館の中は薄暗く、ゆっくり見て歩く人で混雑していた。しかし静まりかえっていた。
突然 赤ちゃんの泣き声がして、原爆の写真を前にしてその泣き声にギクッとした。

資料館の外に出て晴れた空のもと噴水を目にし、息詰まるような思いが溶けて何故かホッとした。

資料館前の噴水

今もウクライナで戦争が続いている。先日、米トランプ大統領とウクライナのセレンスキー大統領の会談は、激しい口論だった。

激しい口論となった会談

トランプ大統領が「あなたは何百万人もの命を使って賭けをしている。第3次世界大戦をめぐって賭けをしている」と言った。

とうとうトランプは第3次世界大戦という言葉を使った。
言ってはならない言葉を使ってしまった。そんな大統領が、核のボタンを持っている。

  • 2017年I C A N核兵器廃絶国際キャンペーンがノーベル平和賞を受賞した。
  • 昨年(2024年)日本被団協日本原水爆被害者団体協議会がノーベル平和賞を受賞した。
見入る外人客の二人

世界の良識が、必死になって原爆・核廃絶を願っている。
にも拘らず、日本は未だに核兵器禁止条約へのオブザーバー参加もできないでいる。

残された時間は長くない。核廃絶に向けてサタン(悪魔)を排除しなくてはならない。

どこか目に見えない処に隠然として「サタンの爪」が潜んでいる。

原爆の惨禍を招いてはならない。
No More HIROSHIMA(広島)

被爆地を訪れないと分からないことがある。次回は長崎平和公園に訪問しようと思っている。

 

長州・萩の旅

「明治維新胎動之地」

山口県こと長州・萩に行ってきた。
ここは明治維新の胎動期に吉田松陰の私塾「松下村塾」があった場所です。

今では観光地になっている。明治維新のすさまじい変革の時代を知らない人たちまでが、神社仏閣を参拝するように来ています。

松下村塾

若き吉田松陰こと寅次郎は安政の大獄によって死罪を宣告され、江戸伝馬町の獄に殉節しました。29才の若さであった。

八畳間の松下村塾から明治維新が始まった。この部屋である

萩の街は小さい。未だに残る武家屋敷のたたずまいを見て想った。
真っ直ぐな路地が、怜悧れいりで理屈を真っ直ぐに通す気質を育てたのだろうか? 吉田松陰の真っ直ぐな気質、直情、人を諭し、感化した。この小さな萩の町並みが松陰にそうさせたように思った。

松陰の門下には、高杉晋作、久坂玄瑞、木戸孝允、山縣有朋、伊藤博文など明治維新に活躍した偉人が連なります。

明治初期、萩で反乱を起こすことになってしまった人物がいる。武家屋敷を歩きながら、やっと思い出した。前原一誠まえはら いっせいである。

前原一誠

前原一誠も松下村塾に学び、後に明治2年政府の参議にまで名を連ねたが、大久保ひきいる政府に意見が合わなくなり下野し萩に戻った。
そして明治9年、不平士族を統率して萩で挙兵し、敗走し萩で処刑された。

明治初期、士族は路頭に迷った。これまでの身分も俸禄も失った。

そしてその後、佐賀の江藤新平の乱、神風連の乱、西郷隆盛の西南の役へと歴史は繋がっていった。

いま明治維新の頃(170年前)を見ることはできない。ただ昔も咲いていたであろう梅の花の写真を撮った。(季節は梅花の頃だった)

そして、昔も在ったであろう「白砂青松」の海岸をながめた。

泊まった千春楽旅館の前に、ぽつんと門だけがある空き地があった。いまの萩の街の象徴的な景色のように思えた。

明治維新は遠い歴史の彼方となった。