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佐藤泰然の生き方

日本の西洋医学の創始者は、杉田玄白と答える人は多いと思う。しかし、幕末のころ、漢方と蘭方(西洋医学)が争ったのちに、蘭方が蘭学(語学)とともに権勢を誇った面白い時代がありました。
この頃が日本に西洋医学が始まった時と言えなくもありません。
佐倉の順天堂、大坂の適塾などの蘭方医塾は教育機関としての性格が強くなり、蘭学(外国語)の学習は医家から始まった訳です。

幕府の西洋医学所は、種痘所を文久元年(1861)に西洋医学所と改称したものです。
初代頭取の大槻が病床に着いたあと、幕命により大阪から適塾の緒方洪庵が呼び出されて、頭取に就任させられた。その翌年、緒方洪庵が亡くなり、その後を継いだのが 松本良順りょうじゅんであります。

S54/7~11月 新潮社刊行

司馬遼太郎の長編小説「胡蝶の夢」は、松本良順のほか、関寛斎司馬凌海(島倉伊之助)など、幕末の蘭学・医学者の群像、特に順天堂を中心とした医学者の人々を描いたものです。幕末の医学史です。

関寛斎という一風変わった人に興味を持って読み出したのですが、その寛斎より佐藤泰然の生き方に興味をそそり、心に響くものがありました。少し長くなりますが「胡蝶の夢」の文章の中から、佐藤泰然に係る部分をそのまま引用してみましょう。

佐藤泰然

佐藤泰然たいぜんは、松本良順の実父で、佐倉の順天堂の創設者だった。
もともと医師の家系ではなく、泰然の父(良順の祖父)藤助とうすけの素性は知られたものではなく、出羽から江戸に流れてきたときは無一文に近く、その上、文盲に近かった。旗本 伊那遠江守いな とおとうみのかみの中間として入り込み、才覚一つで用人となり、さらに金を溜め、次男喜惣治(良順の叔父)に御家人の株を買いあたえて幕臣にした。藤助の孫の良順が将軍の奥御医師になってしまう。
 
良順は年少のころ、生家の佐藤家にずっといたわけではなく、実父の佐藤泰然が長崎に留学中、満三才から三年間、泰然の親友の山内豊城(徳右衛門)の家にあずけられた。さらに満十一才のとき、泰然が佐倉藩に請われて藩医になってゆくとき、良順を薬研堀の洞海どうかい(良順にとって姉婿)のもとにあずけている。
 
良順の実父佐藤泰然ほど、友情に厚い男は珍しい。佐藤泰然がまだ町医のころ(薬研堀やげんぼりでの開業時代)というのは天保9年(1838)から同14年までのあいだで、泰然が開業して3年目に、三宅艮斎ごんざいという肥前うまれの医者が、長崎修行をへて江戸にでてきた。開業したのが薬研堀で、泰然のほんの近所であった。同商売のものが近所で開業するというのは本来迷惑なものだが、泰然はむしろよろこび、たがいに往来して医学知識を交換した。泰然が天保14年に佐倉藩にまねかれると、その翌年に三宅艮斎を推挙して藩医(江戸詰)に列せしめた。当時、藩主堀田ほった正睦まさよしに徳姫という一女がいたが、この姫が驚風(漢方での病名・脳膜炎もしくはそれに似た病気)にかかったのを、藩医になって早々の三宅艮斎がこれをなおした。そのときの佐藤泰然のよろこびようは非常なもので、自分の幸せは艮斎のようなよき同学の士を友に持たことだ。と言った。
 
その艮斎ごんざいの長男が、三宅ひいずである。
良順より12才年下で、良順が教育のために佐倉から薬研堀の姉婿 洞海どうかいにあずけられた年に、秀が生まれた。

松本良順

少年のころの良順は、この三宅宅によくあそびに行った。三宅家にはひいずにとっての母方の叔父が医学修行のために同居していたが、これが口の悪い若者で、「順坊順坊、蛙の日干し」とはやしてからかった。少年のころの良順は痩せて目ばかりがおおきく、その上両眼の間隔がひらいていたから、蛙に似ていた。
 
佐藤泰然が、佐倉藩の藩医を養子の舜海しゅんかい(山口舜海とも佐藤尚中ともいう)に継がせ、文久2年、異人の多い横浜に出てきた。
彼は末子の統三郎(のちのただす)を米人ヘボン博士に学ばせたが、このとき友人艮斎の子のひいずも横浜に引き取っておなじくヘボンに就かせた。
泰然は藩主の外交顧問のような仕事をしていて塾を養子の佐藤舜海しゅんかいにまかせていた。
 
泰然は、親切な男だった。この親切は骨の髄からのものらしく少壮のころはいい若者を見つけると懸命に教え、教えるだけでなく、医家としてなりたつようにしてやった。若いころ弟分の親友だった林洞海どうかい薬研堀やげんぼりの医院をそっくりくれてしまい、佐倉藩行って順天堂をおこすと、「この者ばかりは不世出だ。」と見込んだ山口舜海を塾頭にし、養嗣子にし、ついには自分が横浜に退隠するにあたって佐倉藩でのろくと身分をがせ、順天堂もくれてやった。
 
泰然は退隠したとはいえ、花鳥風月には関心をもたず、発句もつくらず、隠居のひまばなしも好まない。相変わらず医学と医術が好きで、居留地にいる各国の医師を訪ねてはその診療ぶりを見たり、理論を聞いたり、臨床を見学したりするのが好きなのである。そのくせ、医学界に何の野心もなかった。
 
実子 良順りょうじゅんの会津への出奔を知っている。(中略)欧州から帰国する末子の林ただすや甥の六三郎(遺仏使節随行)らが良順 同様、新政府に抗して榎本えのもと武揚たけあきとともに蝦夷地へ行きたいというと、むしろその選択に対して倫理的にほめ、賛成した。

長々と引用してしまいましたが、泰然という人物をおわかり頂いたでしょうか? 「胡蝶の夢」の著者司馬遼太郎も佐藤泰然が好きで好感をもって描いたと思います。

冒険も創造もない生き方より、未練を排し、執着しない生き方が自由で魅力的です。江戸末期のころ「自由」といった語彙すら無かった。しかし、蘭語のフレーヘード(自由)という概念を理解した人達がいたようです。佐藤泰然もその一人だったでしょう。

いさぎよしとする人生を願うのは簡単です。しかし、潔く生きることはそう簡単なことではありません。


蛇足ながら、コロナに苦しんでいる今と、幕末のコレラが猖獗を極めたのとよく似ています。
幕末、コレラが中国上海から日本長崎に上陸し、医療はなすすべもなかった。江戸へも感染は広がり、被害は甚大となった。
医療は「おおやけ」なものです。秘伝でも何でもなく、特権を持った者が独占すべきではない。現代的に言えば特許を主張すべきではないのです。
医療は、万人に平等になされ、公平に利益を受けなければ医療は無力となります。感染症のコロナはそれを教えています。

 

レンズの愛称(ニックネーム)

カメラのレンズには愛称(ニックネーム)が付くものがあります。焦点距離の割には明るいレンズで、レンズ愛好家好みで高額なものです。殆どは焦点距離F値を組み合わせて愛称を付けてます。

  • ハチゴロー(八五郎) 800mm F5.6;鳥撮用のレンズ?
  • ロクヨン(六四)   600mm F4;憧れのロクヨンか?
  • ゴーヨン(五四)   500mm F4
  • シゴロ(四五六)   400mm F5.6
  • ヨンヨン(四四)   400mm F4
  • ヨンニッパ(428) 400mm F2.8;望遠レンズでF2.8!
  • サンニッパ(328) 300mm F2.8
  • サンヨン(三四)   300mm F4
  • ニーニー(二二)   200mm F2
  • ニーニッパ(228) 200mm F2.8;F2.8通しなら大三元
  • ニーヨンヨン(224)200-400mm F4
  • ヒャクマクロ(百マクロ)100mmマクロレンズ

他にも一般的な愛称になったレンズがあります。

  • パンケーキレンズ:パンケーキのような形状の広角
  • 高倍率ズームレンズ:広角から望遠まで1本カバーするレンズ
  • 大口径レンズ;F値が1.4、
  • 沈胴型レンズ;

麻雀の役満に匹敵する大三元という凄いレンズが2000年代に揃ってきました。

  • 大三元レンズ;
    F2.8通しのレンズで広角16-35mm、標準24-70mm、望遠70-200mm、ズームレンズの3本セットです
  • 小三元レンズ;
    大三元に次いで、F4通しのズームレンズでの3本セットです。

会社か法人のプロ用ならともかく、個人が買えるレンズには限界があります。それでも それでも セミプロが憧れるレンズです。

最近、一眼レフからミラーレスのなって、各社からミラーレス用レンズが揃い始めました。大三元のレンズが揃ってますが、各社マウントが違いますので、互換性がありません。
そこいくと、マイクロフォーサーズではLumixとOlympus 両者に互換性があってマウントが統一されています。
マイクロフォーサーズにも大三元に似たものがあり、フルサイズと比較している Yuutubeがありましたので紹介します。

大三元でもマイクロフォーサーズの方が安価で軽いのです。実はそこにこそマイクロフォーサーズのメリットがあります。
しかし、フルサイズのこの価格、この重量はあきれてしまいます。カメラ本体よりずーっと高額です。”レンズ沼” と揶揄されるほど道楽には際限がないということですかね。
 
 

駒場野公園の冬に野鳥撮影

今年はコロナで外出自粛が続く中、ホームパークである野鳥公園へ行くことができませんでした。仕方なく、近くの駒場野公園で野鳥を観察しながら、野鳥撮影をしていました。

これはプライベートな作品展です。こんな野鳥が来ているのかと見ていただければありがたく。

混群で梢を飛び回る混群で梢を飛び回る混群で梢を飛び回る混群で梢を飛び回る笹のなかに隠れるエサを見つけるまで突付く近くの枝に来てこっちをジッと見つめている。近くの枝に来てこっちをジッと見つめている。近くの枝に来てこっちをジッと見つめている。カクレミノに隠れるメジロこちらを睨んでる水浴びに来た。ヒヨドリこちらを睨んでる隠れてるつもり?ヤマガラヤマガラ何かを見つけたようです。冬は榎の実でも食べるカマキリの巣を突っついてエサを探します。公園のロープの上で様子をうかがうおバネをしっかり着けて突きますなにかないかなー?冬木立にて真冬も大寒の季節真冬も大寒の季節真冬も大寒の季節真冬も大寒の季節なにかまだ用事ある?なにか御用ですか?シロハラがミミズをゲットシロハラ全景でござるハイポーズシロハラ

 

Flickr で直接見て頂く場合は、下の画像をタップしてアクセスして下さい。

混群で梢を飛び回る

コロナの特効薬mRNAワクチン

この記事は3年以上前に投稿された古いものです。

緊急事態宣言を発してもコロナの感染が止まらず、とうとう1万人の死者を出してしまった。世紀に一度のパンデミックとはいえコロナの感染の恐ろしさに驚いています。

いまから162年前の安政5年(1858年)に江戸でコレラが流行はやりました。上海から長崎出島に上陸し、大坂、江戸へと感染拡大したようです。余談になりますが、少々コレラについて書きます。

安政5年(1858) 36x50cm
天壽堂蔵梓の「項痢(ころり)流行記」の口絵

江戸だけで26万人が感染したそうです。当時、築地本願寺で13,500人の死者、浅草で15,148人、下谷で12,849人、小石川で1,907人、牛込で2,014人、深川で8,459人と、短期間で凄まじい感染だったと記録されています。

この時代、コレラ菌を発見したコッホ、ワクチンを作ったパスツールの25年前です。日本中がコレラに震撼し、医療は手探り状態で無力でした。キニーネと麻薬を与え温浴させるしか手がなかった。容赦なく感染は拡大し、屍累々とした情況だったのです。

因みに安政という年は、元年に東海地震、南海地震など大地震が起こり、翌年も江戸に地震があった。ハリスが下田に来航したのが安政3年、日米通商条約が引き金となり安政の大獄が始まった。安政5年から安政7年までコレラが爆発的に感染拡大したのです。鬼神乱れ、人心乱れる中で何故か疫病が蔓延してしまう、直接の因果関係はないにせよ、なにか歴史に不思議さを感じます。

さて、今回のコロナに話を戻します。
世界中が震撼し、有効な医療は手立てがないままに、人工呼吸器(ECMO)やレムデシビル、アビガン、ステロイド系抗炎症薬などの応急措置で対処してきました。
今、やっとワクチンが開発され日本で承認されて一部医療従事者から接種が始まりました。コロナの特効薬ができたのです。

このワクチンはmRNAワクチンと言って、従来のワクチンとは全く異なります。世界で初めて開発されたワクチンなのです。
ゲノムの時代、PCR検査も世界初の技術でしたが、このmRNAワクチンも世界初の画期的な技術から開発されたのであります。

ビオンテックがワクチン生産を始めたマールブルク工場=同社提供

バイオベンチャー、独ビオンテックの開発がなければこんなに速くワクチン開発はできませんでした。

開発は一人の科学者カタリン・カリコ氏から始まりました。
カリコ氏はハンガリーの出身で、1985年にUSAのペンシルベニア大学に移って研究を始めたそうです。

カタリン・カリコ氏(Katalin_Kariko)

東欧共産主義国だったハンガリーを出国するとき、外貨持ち出し制限があり、900英ポンドを娘のテディーベアに隠して出国したそうです。ペンシルベニア大学でも研究成果が出ずに、1989年助教授を降格されてしまったそうです。

ペンシルベニア大学のドリュー・ワイズマン教授と出会って共同で2005年に論文を発表しました。コロナのmRNAワクチンは、この発表での特許が基礎になっています。

ワクチンの開発には10年かかることも珍しくない中、コロナ感染が拡がって僅か1年、2020年12月には英国で承認されたのです。おたふく風邪のワクチンでさえ4年はかかったのですから超スピード開発でした。また、もしコロナが何年も前に発生していたら、今回のようなスピードでワクチンが供給されなかったでしょう。

ビオンテック社(Mainz.BioNTechSE)

不遇だったカタリンカリコ氏を2013年副社長に迎えたのが独ビオンテック社(Mainz.BioNTechSE)でした。

このビオンテック社が、ファイザーやモデルナへ技術供与しワクチンが作られることになったのです。

体内で異物として拒否される免疫反応を抑えるためにmRNAの一部を改変する方法をとるmRNAワクチンは、通常のワクチンと違い病原体を体内に入れるわけではありません。
mRNAで目的のタンパクを作らせることを阻害させます。そしてmRNAはすぐに分解され消滅してしまいます。
そしてこの新型コロナワクチンは、がん治療や再生医療にも道を開く「mRNA医薬品」としての可能性を秘めているのです。

2020年12月18日カリコ氏とワイズマン氏が自らワクチン接種を受けました。感無量であったに違いありません。

まるでコレラの現代版のようなコロナに、最新のゲノム技術に支えられた、mRNAワクチンという特効薬が開発されました。

コロナワクチンの接種が、人口の60%を超えれば終熄に向かうと言われています。

きっとノーベル賞に匹敵するゲノム編集、mRNAワクチンの開発者に敬意を表しつつ、ワクチン接種を受けたいと思っています。

 

 

蝦夷時代の北海道

この記事は3年以上前に投稿された古いものです。

150年を迎える北海道ですから明治以前の蝦夷時代には関心がなかった。だからアメリカの血筋を引いた北海道などとお気楽に考えていました。ところが蝦夷えぞ時代の北海道に面白い歴史があったようです。
司馬遼太郎はそれを紹介しています。高田屋嘉兵衛です。彼のエッセー「北海道の諸道」の函館の旅のなかに出てきます。

「夜、街に出て宝来町で夕食をとった。その店の軒をくぐるとき、ふとふりかえると、坂ののぼり傾斜を背にして ーつまりは海に向かってー  銅像が立っている」と… (左の写真)

実は、高田屋嘉兵衛なる人物を描いた「菜の花の沖」は司馬遼太郎 60才晩年の著作です。2年9ヶ月(S54/4/1~S57/1/31) にわたりサンケイ新聞に連載された長編であります。

明治より100年遡って、明和6年(1769)生まれの嘉兵衛という淡路島が生んだ船頭の稀有な生涯を綴った物語であります。
司馬遼太郎は、歴史の探訪者としてその時代を訪ね歩いて、時空の旅を愉しませてくれるところがあります。

読者を見事に蝦夷時代の北海道に連れて行ってくれます。閉ざされた特殊な鎖国という時代、徳川幕府は北海道をどう見ていたのか?どのような支配をしていたのか?

原点は家康にあります。「えぞの儀は、何方へ往行候共、夷次第たるべき事」とし、一粒の米も採れない地(石高のない地)を松前藩に封じて、重要視も監視もしなかった。

その松前藩は自らの領地を軽侮していた。アイヌに対して差配するものでもなく綏撫すいぶもしなかった。アイヌに対し支配権を持たないはずだった。アイヌは士農工商から外れた者のようだった。

また、松前藩自身は場所(管理地)にも責任も関心も持たなかった。
アイヌとの隔離政策をとって、場所の番人によってアイヌはけもののように酷使されていた。

また江戸後期、北前船という謂わばタンカーのような荷船は、経済の大動脈だった。米のみの農本主義をとった江戸時代の経済が大きく変わろうとしていた。
そのような時期に来て、世界は大航海時代を迎えていた。そして北海道にもロシアの船が来た。だが国家運営をおこなうはずの武士はというと、この時代変化を無視し続けていた。司馬遼太郎は江戸時代の武士をこのように見ています。

武士は一生年金生活者であった。有閑階級であり空論の徒で、賄賂役人という意味も含み、また責任のがれしか考えていない身分の渡世者をさす。  (まことに辛辣な表現であります)
税とは何か、こうした武士が吸い上げるようにしたある意味で「たかり」であった。 (今の日本の役人も変わっていません)
士農工商の頂上に立つ武士がこんなありさまで、底辺の商人はというと、ご禁制のなかで株仲間という大変なものギルドがあった。その原理は封建制度そのもので、既得株の上に大あぐらをかき新興勢力の芽を摘み、追い落とすことだけにかかっているギルドでした。(一部 モリパパ修飾加筆)

江戸時代は鎖国によって自らを閉じ込め、ご法度とご禁制によってまことに変な国家であったと司馬遼太郎は繰り返し説明しています。こうした江戸時代に主人公の嘉兵衛は生きた。
嘉兵衛自身「自分は捨てられた民」だと思っているところから、この物語が始まっています。そこが面白い。

ある時代の常識は、その時代を離れて観てみると実に滑稽なものであります。常識は非常識と見えます。例えば、家族主義がそれです。
家族が中心だった江戸時代、世間の習わし(世故せこ)、面目が立つ立たないといった価値観が中心でした。いまの現代の人からみると笑われてしまうようなことに生涯(価値観)をかけた訳です。

江戸時代をとおして、司馬遼太郎は「領土」についてこんな考えを披露しています。 版図はんとと植民地のGapが江戸時代にあった。

版図という漢語は16、7世紀以降の西洋の概念でいう領土とはわずかに輪郭がちがう。
版は戸籍、図は地図である
西洋とはちがい土地を得るよりも、人民を畏服させたというところにこの語の語感があったかと思われる。
日本の俗語で言えば縄張りというようなところと近いであろう対人主義で対地主義ではない。
ヨーロッパでの領土という法概念はローマ法に由来するらしい
旧来アジア、中国では綏撫すいぶという中国的原理による植民地化であった。「貢物をもってこい。おまえたちが持ってきたもの以上に素晴らしいものを呉れてやる」というものである。

アイヌの生活圏は古来以来の地理的空間であって、対岸の大陸の向こうへも広がって、領土も版図もかたちが明確ではなかった。

ロシアの艦船が出没する時期、松前藩に捨て置くような支配方法は、幕府には出来ず1799年に松前藩を外し、蝦夷地を直轄の管理とした。

浦賀港にペリーが来る42年前にゴローニン事件(1811年)が起こった。海に囲まれた日本は常に海から事件ものごとが始まった。もっとも蝦夷は海からしか入れなかった。ここにロシア来航と北前船との接点があった。

フヴォストフの武力擾乱事件のため幕府は北狄攘夷の姿勢に硬直した。ゴローニン事件が解決したのは一年以上を過ぎた。
ゴローニン少佐以下を帰還させるべく、リコルド艦長と嘉兵衛との一年間を、記録と想像で司馬遼太郎が綴っている。

嘉兵衛の「人間外交」を前にして領土とは?、国家とは何なのか?を考えさせる。

ゴローニン事件の落着、すなわち北方の無事とともに、幕府は蝦夷地直轄について情熱を失い、事件落着後9年目の文政5年(1822)松前藩に戻してしまった。(幕末ならこんなオチにはならなかった)

そして箱館に殷賑いんしんを極め、函館を作ったと言われる「高田屋」も天保2年(1831年)4月5日に嘉兵衛が没するとともに没落した。
嘉兵衛は蝦夷地で何をしたのか?「菜の花が、青い沖を残して野をいっぱいに染め上げた」と司馬遼太郎は最後を結んでいる。
そして司馬遼太郎の命日(2月14日)を「菜の花忌」というそうです。

はこだて菜の花まつり(5/16)

4中下旬となって函館にも菜の花が咲き始めただろうか?

時代を超え、時空を超えてみたときに、見えてくるものは人間でありましょう。

国家より、領土より経済より何よりも、何よりも人間を基点に考える大切さを司馬遼太郎は訴えていた。