アメリカの血筋を引いた北海道

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北海道は開拓使から歴史が始まります。北海道以外に日本のどこにも開拓使は有りません。
明治2年(1869年)から明治15年(1882年)の13年間、北海道開拓使から開拓が始まりました。そこに「お雇い外国人」と称される人たちが、開拓史に名前を刻みました。

北海道開拓使
北海道開拓使

最初に、何と言ってもクラーク博士William Smith Clark(当時50才)を挙げないといけません。彼は、お雇い外国人としてたった8ヶ月滞在(1876年~ 1877年)しただけですが、彼が残した“ Boys, be ambitious ”は有名ですね。

“Boys, be ambitious like this old man”
“ Boys, be ambitious in Christ (God) ”諸説ありますが、“ Boys, be ambitious for what a man ought to be. Gentlemen, good-bye. ”というのが一番穿うがっています。
即ち「人間として役に立つ仕事をするために、人間というものは野心的であらねばならぬ」です。(知的野蛮人のすすめ 岡野加穂留著 P6)

William Smith Clark
William Smith Clark (羊ヶ丘展望台)

何よりもクラーク博士の業績は、内村鑑三、新渡戸稲造を産んだことです。
偉大なる業績とは、人を創る(教育する)ことでしょう。

吉田松陰の業績も同様、高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文、山県有朋など、優秀な人を創ったことにあります。

また逆に「師の業績は、弟子で決まる」とも言えますが、人物は、まとまって輩出するようでその時必ず偉大な師がいます。

Edwin Dun
Edwin Dun (真駒内エドウィンダン記念公園)

クラーク博士と同じ年に、札幌農学校にお雇い外国人として来た若き(28才)のエドウィン・ダンEdwin Dunは、北海道の牧草地や畜産施設の整備に尽力し、「北海道酪農の父」と云われています。

1882年に開拓使が廃止されまで着任し、一旦はアメリカへ帰国しますが、アメリカ政府に北海道での業績が評価され、翌年アメリカ公使館書記官として再来日し、後に公使となります。

1894年に日清戦争が勃発した際には和平交渉実現のために奔走したといわれています。公使辞任後は、インターナショナル石油会社の直江津支店支配人を務めたり、三菱造船本社に勤務し、83才で亡くなるまで終生日本で暮らしました。

Horace Capron
Horace Capron(大通公園)

もう一人、お雇い外国人を紹介しておかなければなりません。
そもそも札幌農学校を誕生させたのが、ホーレス・ケプロンHorace Capronであり、彼の進言によってクラーク博士は迎えられたのです。1871年67才の老齢ながら来日4年間札幌に在って、自分より22歳も若いクラークを推挙したと言うんですから、これまた立派な業績ですね。

このモリパパ・ブログで、北海道の魅力は開拓史だと書いたことがあります。そして北海道にはどこかアメリカのフロンティアFrontier・スピリットSpiritを感じます。
それもそのはず、実はケプロンCapronクラークClarkダンDunは共にアメリカから来たお雇い外国人です。 北海道開拓使のお雇い外国人は、ケプロンを筆頭に合計78名中、48名がアメリカ人だったそうです。
どうやら北海道は、アメリカの血筋を引いているんです。

北海道は津軽海峡を渡った海外なんです。そう言えば北海道では、本州以南を「本土」と呼びます。

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