牧野富太郎と妻すゑの生涯

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牧野富太郎と妻すゑの生涯をたどった小説があった。「草をしとねに」(大原富枝 著)と題する小説です。初版は2001(H13)年4月1日とありますが、1999~2000年に雑誌「サライ」に掲載されたものを「小説牧野富太郎」としてまとめられたものです。

この小説は、牧野富太郎と妻すゑの生涯をたどったもで、著者大原富枝はこう言っています。

この一連の須衛子の幼いが、真実の思いがこもった手紙が存在したために、わたしはこの作品を書くことが出来たのだ。

富太郎の人生を探るうちに、彼自身より妻のすゑに興味を寄せ、特に中渋谷での暮らしぶりの本当のところはどうだったのか知りたくなって、この小説を手に取りました。

富太郎自身は「自分流の生き方」に徹し、隅から隅まで自分流でないと気が済まないたちだったのでしょう、植物学への底知れない執着力・探究心は土佐の「いごっそう」の気質から来ています。
独立不羈ふきの精神、周囲への迷惑も顧みない自己中心的なところがあった富太郎だったのですが、それを支えたのは妻すゑです。
すゑとはどんな人物だったのでしょう? 富太郎よりむしろすゑの方に興味がそそられます。

作家;大原富枝

もし、すゑの手紙が沢山残っていなければ知る由もなかったのですが、富太郎はすゑの手紙を捨てず、残してくれました。
そして大原富枝は、すゑの真実の姿を書き残してくれました。13人の子供を産み、6人を育て上げ、窮乏の生活の困苦に耐えたすゑの人生を描き出しています。

この小説で初めて知ったのですが、すゑは渋谷の荒木山(今の円山町)に、待合いを開き、それによって得た資金で東大泉に7百坪の土地(借地権)を購入しました。それが老人富太郎の研究の場となったのです。
もちろん東大泉の土地は、池長はじめから借地したものですが、すゑの努力と采配があってのことだったのです。突然に天から降ってきたような展開など実際にはありません。多少事実と違うにせよ小説に書かれたような経緯だったに違いないとうなずいたしだいです。

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