すゑの出自は、安政の大獄で有名な井伊直弼の系譜を引く武家だったようで、父(小沢一政)が突如失脚したため、すゑは京都花柳界の小母に身を寄せ、そこで育てられたようです。だから「待合い」のことは、心得があったのでしょう。
渋谷の「いまむら」を引き受けるきっかけが小説の通りだったか分かりませんが、すゑが渋谷の花街で「待合い」の女将を務めたのは事実でしょう。
富太郎が「渋谷の荒木山に住んでいた」と自慢げに書いてますが、正確に言えば、妻すゑの店があったところです。自宅は中渋谷で、国道246を渡った処にありました。
今では、誰も知らない「荒木山」とはいったい何処か?
やっと分かりました。
これが今の円山町です。円山町に通りの奥に、小粋な焼き鳥屋がありました。確かに「荒木山」と書いてあります。
まさにここが荒木山です。更に、その先の角を右に折れると、今も立派な割烹”三長”があります。割烹の塀に道玄坂地蔵(豊沢地蔵)が祀ってありました。小説「草を褥に」に書かれた通り、地蔵に木札があり、今も変わっていません。
この辺りが大正時代、花街だったのです。すゑの店「いまむら」が何処か正確な場所は分かりませんが、今もその名残りを漂わせ雰囲気は残っています。
もともと渋谷は、駅を中心に西は荒木山、東は宮益坂に花街がありました。大正2年に花街は荒木山にまとめられることになり、宮益坂の「いまむら」は廃業。「いまむら」の”のれん”をすゑ(須衛子)が継ぎ、荒木山で開業したとのことです。
待合い「いまむら」のおかみとしての須衛子が、地味っぽいがどこか粋な縞柄の着物を働き者らしく裾短にキリッと着こなしてこの道を往く後姿の低目にしめた帯が見える心地がする。
こう想像すると、貧乏たらしい「すゑ」は何処にもいません。江戸っ子の粋な姉さんといった恰好です。
大正年間、円山町(荒木山)は全盛期を迎え、すゑも「いまむら」でひと稼ぎできたのでしょう。大正15年に東大泉に移るまでは、牧野一家は貧乏を脱し、一変して都会生活を愉しんでいた様子が見えてきました。
それが逆に、人に疎まれ、嫉まれ、富太郎が東大植物学教室で受けた仕打ちの原因の一つになったのかも知れません。(松村教授の忌諱に触れた理由の一つでもあるのでしょう。)
「困窮極まりない生活をしていたのが、ここ中渋谷での生活だった」と思い込んでましたが、とんでもない間違いでした。
大正8年に中渋谷に移ってからの生活は、人もうらやむ生活だったのです。
富太郎が「世には良く出来た人と、良く出来ていない人がいる」などと嘆いてますが、須衛子の稼ぎによって人もうらやむ境遇となった、裏返した表現のように思えてくるのです。