帯広の旅

十勝平野は約1万8千年前に恵庭岳の噴火による火山灰地であす。そのど真ん中に帯広があります。

およそ北海道の開拓は、海路沿岸から成立したのに帯広だけは違った開拓の歴史を辿っています。

依田勉三ほか渡辺勝、鈴木銃太郎等の晩成社によりオベリベリ (帯広)の開拓が始まりました。帯広の開拓史は、彼等の壮絶な開拓の原点から始まったと言えます。

帯広百年記念館

帯広百年記念館に入ると、順路の最初に晩成社が出てきます。明治15年晩成社は結成され、北海道調査が始まりました。

依田の出自は静岡豪農で、渡辺、鈴木と慶應義塾で知り合って晩成社を結成しています。最終的に晩成社は大正5年事実上破産し悲劇的に終わりました。勉三73歳で帯広に没しています。

松山善三の「依田勉三の生涯」を読んだことがあり、百年記念館の展示に興味を持って見学しました。中でも印象に残った解説があったので写し取りました。

晩成社は花咲爺さんの犬の役目
開拓の苦闘を陰で支えたのは多くの女性達です。そうした女性の一人が渡辺カネであり、依田勉三を十勝開拓の父とするならカネは開拓の母と言えるでしょう。カネは二男四女を生み育て、夫の勝、兄の銃太郎、勉三の死をおくり、そして昭和七年発足から五十年の晩成社満期解散を見とどけ、同二十年十二月入植の地の自宅で八十七歳の生涯を閉じました。
昭和二十年八月、カネは郷土史研究家の質問に答えて「ここ掘れわんわんの花咲爺さんの犬のように、あとからやって来る人達が欲しがるようにな土地を開くのが晩成社の仕事で、立派に犬の役目をはたしたと思います。晩成社の五十年は夢のようです」と語りました。

左が渡辺勝、右がカネ

このカネの話で晩成社の意味が、自分の中で変わりました。

カネは聡明な女性だったのでしょう。十勝開拓の歴史に残ります。


さらに十勝の歴史には欠かせない人物がいます。寛斎カンサイです。この人も百年館に展示されてます。(帯広百年記念館では関 ユタカとなっていましたが同一人物です)

千葉東金辺りで生まれ、順天堂の創始者 佐藤泰然に蘭方医学を学び医師となり、松本良順の下でオランダ近代医学をポンペから学びました。その後、徳島蜂須賀藩の藩医となりました。
また戊辰戦争で官軍の奥羽出張病院長として、敵味方の別なく治療に当ったといいます。その後徳島に帰っていち医師となった。

ところが、数え73歳となって十勝の陸別町に入植したのです。この入植には札幌農学校の次男の勧めがあったようですが、なぜ一念発起して北海道に入植したか?詳しい理由は分かりません。
陸別町への開拓事業に全財産を投入し、広大な牧場を拓き、後にこの土地を開放したが、自作農創設の志しが果たせず、大正元年82歳にして服毒により自らの命を絶ってしまった。

入植後も徳島の蜂須賀藩主から賜ったつつみを大切にしてたというから、徳島の生活をしのんでいたのでありましょう。

関寛斎については、司馬遼太郎の「胡蝶の夢」に詳しく出てきます。帯広の開拓の歴史に登場する人々は、変人奇人の類に及ぶようです。今の農業王国「十勝」を切り拓い者は、有志の入植者です。農業を知らない有志の入植は悲劇的だった。
尤も、アイヌの暮らす原野に農地を開拓する者は、何かに取り憑かれたような人々でなければ為せなっかったのでしょう。

私事ながら73才になって北海道に移住してきました。依田勉三は73才で亡くなった。関寛斎は73才で十勝に入植した。73才とは節目かな?あるアンケート調査によれば「お年寄り」は73才、「シニア」は61才だそうです。(ふ~ん!)

さて帯広百年記念館に別れを告げることにしましょう。北海道の歴史は若い。明治より遡る歴史は少ない。若い大地です。
そんな想いをいだき帯広駅へ戻りました。

昨日、池田町のワイン城に行った翌日立ち寄った帯広はついで旅でした。観光地ではありませんから、開拓の歴史を考える旅としました。

タクシードライバーの案内で、駅で豚丼を食べることになった。
紹介されたのは「ぶたはげ」何とも面白い名の店です。

客が並ぶほど人気店で、帯広には珍しく混んでました。

最後に帯広名物「豚丼」で〆めて帰宅の途に就いたという訳です。

お粗末様でした。

 

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