創価の決意、初信に戻って

今年9/16、北海道恵庭に移住し早いもので3ヶ月が経とうとしています。顔合わせで座談会に初て出席したのが9月19日でした。

翌月の座談会(10/16)で自己紹介方々体験発表をさせていただきました。原稿はA4用紙で4枚(3,500文字) と長文なってしまいましたが皆さんが真剣に耳を傾けてくれました。

創価学会 道央文化会館

最後にこのように結びました。

肩書もなく、役職もなく、知り合いもいません。ひとりの学会員として初信者の気持ちになって学会活動してまいります。

先生の指導に「何歳になっても、新しい何かに挑戦する人は、若々しくいきていける。いよいよ若々しく、広宣流布と人生の最高峰へ、お互いに、楽しく粘り強く挑み続けて、勝っていこう。」とありました。そして最後にこう挨拶させて頂きました。

恵庭での新生活は、私にとって人生最高峰へとつなぐ最終章になります。白紙からの新出発です。どうぞご指導よろしくお願い致します。

総てに挑戦していく決意で、もう一度「新・人間革命」を読み直して見ようと思っていたところ、恵庭県の壮年部では”人間革命塾”で「新人間革命」読了運動を毎月行っているとのことでした。

途中参加の”人間革命塾”ですが、第16巻から参加させていただくこととなりました。



11月27日北海道総会があり、ここに池田先生からのメッセージが寄せられました。

世界が憧れ見つめる北海道総会、誠におめでとう!
 女性部をはじめ、わが北海道家族の皆さん、この一年、本当にご苦労さま! 青年部の大飛躍も、何より嬉しい。
北海道の父母と大切に拝してきた「御義口伝」の一節に、「師子吼の『師』とは師匠が授ける妙法、『子』とは弟子が受ける妙法であり、『吼』とは師弟が共に唱える音声をいう」(通解、新1043・全748)と仰せであります。
牧口先生と戸田先生と私、そして愛する北海道家族は、この不二の正義の師子吼で広宣流布の大原野を開拓してきました。小樽問答も、札幌夏の陣も、夕張炭労問題も、しかりです。ここに、我ら三代城の永遠の誇りがあります。
戸田先生は私に言われました。
「未来の新天地・北海道のために、多くの多くの友をつくり、そして私の故郷を大切に大発展させてくれ」と。
どうか、いよいよ師子吼の題目を勇気凜々と、愛する北海天地の何処にも幸の仏縁を広げ、どこよりも仲良く朗らかに慈折広布・立正安国の凱歌を轟かせていってください。
宝の全同志の健康と大福運を祈り、妻と題目を送ります。

北海道の御書は「御義口伝」です。その最初が「師子吼ししくの『師』とは師匠が授ける妙法、『子』とは弟子が受ける妙法であり、『吼』とは師弟が共に唱える音声をいう」が引かれました。

人間革命第18巻の「獅子吼の章」に以下のようにあります。

〈「師」とは師である仏が授ける妙法であり、「子」とは弟子が受ける妙法であり、「吼」とは、師匠と弟子が、共に唱える音声をいう。「作」とは「おこす」と読む。末法において、南無妙法蓮華経を作すことをいうのである〉
これは法華経勧持品の「仏前に於いて、師子吼をして、誓言をおこさく……」(法華経四一七㌻)についての御言葉である。
一言いちげんすれば、師から弟子へと仏法が受け継がれ、師弟が共に題目を唱え、広宣流布の戦いを起こすことが、[獅子吼ししくす]ことになる。 (新・人間革命第18巻p.51)
 
ここに創価学会の原点がある。学会の使命は広宣流布にこそあるのだ。
広宣流布とは、万人に絶対的幸福への道を教える究極の聖業である。分断された人間の心と心を結び、この地上に、慈悲と平和の人間共和の社会を築き上げる未聞の大作業である。
「情熱をもって君たちの使命を愛せよ。これより美しい事はない」このロダンの言葉は、われらにこそふさわしい。
大聖人は「一句をも人にかたらん人は如来の使と見えたり」(御書一四四八㌻)と仰せである。折伏を行ずる人は如来の使いであり、そこに真の仏道があるのだ。 (新・人間革命第18巻 p.134)

創価学会は、自律の仏法であります。

たよって寄りかかるような信心ではありません。更に先生はこのようにつづっておられます。

自身の宿命の転換は、人頼みではできないのだ。自らが真剣に信心に励み、無明の雲を破って、わが胸中に仏性の太陽を赫々と輝かせてこそ、可能となるのである。
大聖人は「若し己心の外に法ありと思はば全く妙法にあらず」(御書三八三㌻)と言われ、それは、「成仏の直道にあらず」(同)と結論されている。(新・人間革命18巻 p.220)
 
フランスの文豪ロマン・ロランは叫んだ。
「最大の悪は自己更新への怠惰である」
まさしく人間自身の一念を変革せずしては、時代の建設はない。生命の魔性を断ずる、仏法による人間革命なくしては、社会の繁栄はありえないのだ。
伸一は言葉をついだ。
「日蓮大聖人は、かの『立正安国論』で、『国土乱れん時は先ず鬼神乱る鬼神乱るるが故に万民乱る』(御書一九㌻)との経文を引かれ、社会の混乱の原因を論じられています。この文は、現代社会の本質を見事に突いております。
ここでいう『鬼神』とは悪鬼であり、『鬼とは命を奪う者にして奪功徳者と云うなり』(御書七四九㌻)とあるように、生命自体を破壊し、福運を奪う、『人間の内なる作用』であります。現代的に表現すれば、『生命の魔性』の意味であり、人間が完全にエゴにとらわれ切っていく、その本質を『鬼神』と表現したと思われる。
この人間のもつ生命の魔性の跳梁が、『鬼神乱る』ということになるのであります」
社会の混乱の根底に何があるのかを、生命の法理のうえから明らかにする伸一の講演に、参加者は目から鱗の落ちる思いがしてならなかった。(新・人間革命18巻p.284 285)

いま、コロナもウクライナも経済危機も仏法の観点から見れば、『鬼神乱る』真っ只中にあります。もう一度、初信に戻らなければならないと思っているのであります。

足下を掘れ、そこに泉あり』といわれますが、平和といっても、それは、身近なところから始まります。つまり、皆さんがいる組織のなかに、友情と信頼の人間共和の縮図をつくり上げていくことです。そして、それを国中に、ヨーロッパに広げていくことです。そこに広宣流布の実像がある。(新・人間革命第17巻 p.317)

足下に泉あり、広布も足下にあると思うのです。自己の中にあると言っても過言ではないでしょう。勇気と誠実で始めるのです。

新・人間革命第18巻には、感動的な女子部長の吉川美香子の体験が綴られている。誰しも涙なくして読めない歓喜の体験です。

苦悩なき人生はないのだ。どんなに華やかそうに見えても、人は悩みをかかえている。一時期は幸せを満喫しているようでも、それが永遠に続くことなどない。生きるとは、苦悩することであるといってもよい。それに負けて、希望を失い、自暴自棄になってしまうことから、人は不幸になるのである。
だから、悩みや苦しみに負けない強い心、大きな心をつくるしかない。
苦悩が大きければ大きいほど、それに打ち勝つ時、より大きな幸福を感ずることができる。
いな、その挑戦のなかにこそ、充実と歓喜の生命が脈打ち、わが胸中は幸福の泉となるのである。
その能動的な自己をつくり、心を大きく、強くすることが、「人間革命」なのだ。
 
ロマン・ロランは「フランス大革命は〝歓喜〟から発したもので、けっして道徳的義務から発したものではなかった」と分析したが、香港広布もまた民衆の大歓喜から発したのである。歓喜を原動力とした平和革命が、我らの広宣流布なのだ。
 
なんのために宗教があるのか─
人類の平和のために、人間の幸福のためにこそ宗教はあるのだ。決して宗教の権威や教義をもって、人間を縛りつけるためにあるのではない。人間こそ「原点」であり、「目的」なのだ。ゆえに、宗教も、国家も、イデオロギーも、人間を手段化することがあっては絶対にならない。また、人間の生命と平和を守るためには、宗教や国家、民族等々、あらゆる壁を超えて、同じ人間として結び合うべきである。それこそが人類の黄金律でなければならない──というのが、伸一の確信であり、信念であったのである。 いや、それこそが、一切衆生に「仏」を発見し、万人の幸福をめざす仏法の結論であろう。(新・人間革命第18巻 p.382 383)
 
〝幸福は、私自身のなかにあるのだ! どんな逆境にも負けない強い心を、価値を創造していける豊かな心をつくる以外にない。そして、皆が自分を変え、人間革命していくならば、社会の平和を実現することができる。必ず、この仏法をもって、香港を幸福の花園にしよう〟
御聖訓には「今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者の住処は山谷曠野皆寂光土なり」(御書七八一㌻)と。
(新・人間革命 第18巻 p.390) 

「新・人間革命」の引用が長くなってしまいました。『新・人間革命』は創価学会の正史です。創価学会は『御書』が根本ですから、当然「新・人間革命」には御書が多く引用されています。

御書は、私たちの信心と生き方の規範であり、根本です。学会は御書を根本としてきたからこそ大聖人に直結し、大発展したんです。その御書の研鑽を疎かにすることは、歯車が機軸から外れることであり、空転を繰り返すだけです。聖教は御書にかえることです」(新・人間革命 第18巻 p.80) 

もう一度「新・人間革命」から読み直し、初信に戻って「人生最高峰へとつなぐ最終章」へと掉尾とうびを飾ろうと決意しています。

 

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