日本の家族(続編)

この記事は3年以上前に投稿された古いものです。

これは、「日本の家族」の続編です。西欧では個人主義が基本ですが、日本は家族制度が基本にありました。これを家族主義とでも名付けたいと思います。でも、やっと最近になって日本に、家族ではなく家庭が育って来たように思うのです。

家族家庭(Family)は違います。古い日本の家族主義が未だ駆逐されずに残って息づいている、それが今の日本の姿のようです。

家族主義とは、家族ヒエラルキーが家庭から国家に至るまで、日本の階層的な上下関係すべてに浸透し、馴染んでいる状態です。

日本に住み、日本を研究したドナルド・キーン(Donald Keene)も、「菊と刀」の Ruth Benedictと同様 米国出身者です。

果てしなく美しい日本」の中で、キーンも同じように家族主義を指摘してます。

日本で、家族とは親と子の関係をはるかに超越したものである。家族制度は今では日本に深く根を下ろしている。
しばしば国家は天皇を頭に戴く巨大な家族のようなものとして論じられ、天皇に与えられるべきと父親に与えられるべきとを同一視することが強調された。

更にキーンは、個人の好みや選択を棄て去り、自己犠牲を払ってまで家族制度を維持した古い日本を物語っています。

日本の家族主義は、政治で言えば自民党の派閥のようなもので、経営で言えば、小さいところでは家族経営から、財閥の三井、三菱、住友のようなものでしょう。

また芸能で言えば、舞踊、能楽、生花、三味線など、流派の家元や師匠にもつながり、それは大学の師匠と弟子にも見られます。

教育界にあっても、教授は弟子の就職からなかには結婚まで面倒をみることもだってありました。

こういった階層意識、家族ヒエラルキーが日本の特徴・基本です。これは歴史的背景も違うことながら、アメリカの政党では共和、民主で争いますが、その中に代々派閥を世襲するような組織は生まれません。また巨大な資産を築いた個人はロックフェラー財団のように財閥ではなく財団を作ります。

欧州でも同じようなことが言えます。ベートーベンやバッハが師匠となって多くの弟子を指導し流派ができたなんて聞いたこともありません。ゴッホもルノワールも個人としてその才能を発揮しました。日本の狩野派のような流派が誕生したことはありません。

ここで、これらを系統だって論ずるつもりはありませんが、日本の家族主義、家族ヒエラルキーは世界的にみて特異だと言うことを強調したいと思います。

でも、最近の日本でこの家族主義が変わって来ました。家族主義の典型の一つとして、結婚式を見てみましょう。僕ら団塊の世代は一様に華々しい結婚式をしたものです。それも新郎新婦ご両家の結婚式でした。

そうです結婚は両家の結婚であります。お二人の結婚式というより両家の結婚式でした。家族ヒエラルキーの象徴的なイベントでありました。今も式場によっては「ご両家」が書かれていますがこれは形式的なものになっています。

先日、最近の若い人は仲人を知らないそうです。これにはびっくりしました。今では結婚もあれば離婚もあるものだそうです。
両家より両人の結婚といった考え方のほうが素晴らしい。

自然に家族主義は消え、個人主義が芽生えて来ているように思えます。個人主義は家族ではなく家庭(Family)を大切にします。
しかし、個人主義は自己の自律、経済的な自立を求められます。少々冷たい言い方をすれば、自己責任を求める社会規範です

今の時代は、家族主義から上手く個人主義へ移行しはじめた時期です。戦後75年という歳月は3世代にも及び、新しい時代を迎えているようです。

 

moripapaブログの関連投稿です