ウクライナ侵略戦争の今昔

1853年10月ウクライナの南端でクリミヤ戦争が起こりました。そのころ日本は幕末で、黒船来航(嘉永6年)の頃のことです。
このクリミヤ戦争はロシアとオスマン・トルコの戦いに、欧米(英・仏)が参戦しロシアが敗北。ロシア衰退の原因となった戦争です。

それから170年後、今またウクライナ侵略戦争が起き、昔と同じような場所で戦争を繰り返しています。

ナイチンゲールの活躍で有名なクリミヤ戦争ですが、戦争による負傷で死亡した者より、疫病(コレラ、発疹チフス、赤痢、下痢、インフルエンザ)による死亡が圧倒的に多かったと云われています。

いまも新型コロナが蔓延する中で、ウクライナ侵略戦争が始まりました。第一次世界大戦でもスペイン風邪が蔓延したように、戦争と疫病は不思議な関係があるようです。

さてクリミヤ戦争はパリ条約(1856年)をもって終結しましたが、オスマン帝国の衰退、ロシアの南下政策、大ロシア主義は敗北に終わり、産業革命が進んだ英・仏による支配に時代は大きく変わりました。

クリミヤ戦争は、明治初期にあった日本にとっても無縁ではありませんでした。ロシアの南下政策という侵略は、クリミヤに留まらず、極東のカムチャッカ樺太にも及ぶ恐怖を与えました。

左から木戸孝允、山口尚芳、岩倉具視、伊藤博文、大久保利通

明治政府は明治4年11月(1871年12月)から約2年間、岩倉使節団を欧米に派遣しています。

政府要人の半分近くが一挙に欧米に外遊するといった大胆な使節団派遣でした。明治が近代国家として産声うぶごえを上げたばかりで、国内情勢もまだ不安定だった時期であり、国家の運営さえ危ぶまれた中での派遣で国家的な大英断と言えると思います。

それまで尊皇攘夷の志士だった面々は、自らの目で世界をつぶさに見て驚嘆きょうたんした。こうした経験が世界観を作ったし、日本の近代国家をひらくのいしずえとなったことは言わずもがなのことであります。

ここで司馬遼太郎の小説「翔ぶが如く」の中の一節をご紹介しておきましょう。

日本の明治維新の成立も、幕末以前の日本に恐怖情報として入っていたロシアの南下行動が強い刺激になっていたことを否定することはできない。
山県(有朋)は対露恐怖者であった。それを軸にかれの国防構想はできていた。
「方今、魯西亜ロシア すこぶ驕傲猖獗けうがうしゃうけつさきにセバストポールの盟約を破り、黒海に戦艦を繋ぎ、南は回回フィフィ諸国を略取し、手を印度インドけ、西は満州の境を超え、黒竜江に上下せんとす。其の意以為おもえらく、東方いまにわかに動かすべからず。ゆえまた兵を蝦夷えぞに出し、北風に乗じて湿地におもむかんとす」
という山県一流の名文がそのことをよく物語っている。
その観察も、誤っていない。ロシアの国家的本能ともいうべきその南下膨張政策は、近東へ出るとつぎは極東へでるという繰り返しであり、極東においては沿岸州と満州を欲し、ついで樺太を得、北海道を望むという風であった。

今も昔と何ら変わることないロシアの国家体質は、今回のウクライナ侵略というかたちで、ロシアの体質を露呈してしまった。
プーチンは昔に遡った歴史観で、同じ罪を犯そうとしています。昔のロシアを懐古し「大ロシア」を目指そうとしています。

しかし、軍事力を行使し、力による一方的な現状変更は断じて許されません。ウクライナ侵略戦争は、国際秩序を根底から破壊する暴挙であります。

ウクライナ侵略戦争が始まって半年が経ちました。欧米の経済封鎖の影響はこれからロシアを苦しめるようになるでしょう。
季節は厳しい冬を迎えます。ウクライナ侵略戦争の結末がどのようになるか分かりませんが、一つだけ重要なことは絶対に核戦争への引き金だけは引かせないようすることです。

ウクライナ侵略戦争が昔のクリミヤ戦争と決定的な違いは核戦争の可能性があることです。今のロシアには国連からの声も届かなくなってしまいました。だが、どんな緊迫した中にあっても核戦争への引き金だけは断じて防がなくてはなりません。

 

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