道南の旅 その2(森、函館)

何でもそうだが、初めて訪れた場所は想い出深いものです。
それは年老いても同じこと、今回の道南の旅も印象深い旅になりました。

森町もりまちは北海道で唯一 マチといいます。通常は○×チョウと言いますが、ゴロが悪いのかモリチョウとは言いません。

戊辰ぼしんの役最後の函館戦争(1868年~1869年)はここから始まりました。
江戸無血開城のとき、勝海舟の説得にも拘わらず、榎本武揚はとうとう聞き入れず、品川沖を旗艦 開陽丸を奪って脱走してしまいました。

行き着く先が蝦夷地 北海道で、森町にある海岸「鷲ノ木」に上陸しています。今は観光地でもなく誰も訪れないような場所です。

噴火湾に面した海岸は静かだった。

国道5号線に小さな看板はあるのですが気をつけなければ見逃してしまいます。

入り口から更に徒歩で10分くらい海岸の方へ歩きます。

膝が痛くなければ何てことはない道程みちのりですが、休み休み降りていきました。なぜ鷲ノ木に上陸したのか旧暦10月20日といえば、今の12月初旬に当たります。上陸時の鷲の木は積雪30cm、波は荒れ暴風雪だったと伝えられています。

旗艦 開陽のほか7艦、日章旗を掲げる旧幕府軍。

旗艦 開陽は幕府御用達で、当時最先端の戦艦でした。幕府がオランダで設計新造船させたものです。

造船や操舵術を学ばさせるため、1862年(文久2)日本人留学生ら15名をオランダに派遣しています。榎本武揚はその研修生の一人として渡航しました。そして開陽に乗って1867年(慶應3)に帰国しました。

帰国して半年後、大政奉還(1867年11月)となり風雲急を告げた。戊辰戦争の初戦は鳥羽伏見の戦い。これを見届けることなく徳川将軍 慶喜は大阪湾に停泊してた開陽に密かに乗船し、逃亡した。
慶喜の行動は「恭順」の誠を示し、自ら転げ落ちるを、示そうとしたのかもしれませんが、どうも理解できない行動です。

五稜郭タワーから

話を戻します。箱館戦争は五稜郭が舞台になります。

北方防衛のために数年で築造した幕府の出城でじろ 五稜郭は、北方ロシアの防衛ではなく、箱館戦争の舞台となってしまった。

榎本武揚が首領の蝦夷共和国はわずか6ヶ月で終焉します。
榎本は責任を感じ自刃しようとしたが、最後は陸軍奉行の大鳥圭介の一言で降伏が決まった。

夏草なつくさつわものどもが夢の跡

後に、福沢諭吉が評した“やせ我慢の説”で、榎本武揚の生き方を「2君にまみえた」者として酷評しますが、如何なものか?

官軍 黒田清隆の度量もさることながら、榎本がオランダ留学時代書き留めたオルトランの「海律全書」が彼を救った。

必敗を覚悟しながら武士道のために一戦を試したとは思えない。
「箱館戦争は勝てる」と思っていた節があります。其れにしても哀れ、蝦夷独立の夢ははかなく散りました。

碧血碑は大きな碑だった

箱館戦争で没した無名の武士や浪人は多い。碧血碑へっけつひに眠る者だけでも800柱

官軍は賊軍のみせしめのため、死者を埋葬弔うことが許されなかった。山野に放置されていた。
これを見て侠客 柳川熊吉は追求を覚悟して碑を立て、後に碧血碑となった。

忠義を貫いて死んだ者の流した血は、三年経てば地中で碧玉と化すという伝説に因んでいるそうだ。

ここまでが森町から函館の旅で、マニアックな一人旅行でした。箱館戦争を始めと終わりを辿って、榎本武揚を偲んだ旅でした。

それにしても、森町の鷲ノ木から五稜郭まで45㌔あります。なぜ開陽が直接箱館に上陸しなかったのか?今も疑問が解けません。


もう一つ函館で見たかったのは、高田屋嘉兵衛の立像です。司馬遼太郎は「北海道の諸道しょどう」で次のように綴っています。

夜、街へ出て宝来町で夕食をとった。
その店の軒をくぐるとき、ふとふりかえると、坂ののぼり・・・傾斜を背にしてーーつまりは海にむかってーー銅像が立っているのに気づいた。
食事を終えて出るとき銅像の高い基台に近づいて。下のほうの銅の文字を見ると高田屋嘉兵衛とあった。

結構大きな立像である。こんな大きなものとは思わなかった。
これは函館の人の誇りなんだと思ってしまった。

高田屋嘉兵衛は、先程の榎本武揚の箱館戦争より半世紀さかのぼった時代の頃だ。ロシアのゴローニン事件(1811年)とのかかわりのなかでの物語になった。司馬遼太郎の小説「菜の花の沖」に詳しい。

司馬遼太郎が食事したという料亭らしい店もあった。今はおでん屋だそうだ。


函館山ロープウェーで昇り、函館の街を見下ろした。ミシュラン推奨の★★★の絶景である。昨夜、夜景を見に行くべきだったと反省した。★★★わざわざ旅行する価値がある Valt Le Voyage)

函館山より、眼下に広がる函館の街をみた。

膝の怪我がなかったら、もっと街なかを歩き回りたかった。箱館は観光するに価値ある街です。どこかサンフランシスコに似ている。

ケーブルカーは路面電車とロープウェーに、急坂も沢山ある。旧函館区公会堂やハリストス正教会など歴史的建造物も多い。
そして駅前の朝市はさしずめ フィッシャーマンズワーフFisherman’s Wharfだ。

想い出のサンフランシスコI Left My Hart in Sanfransiscoを鼻歌混じりに函館を去りました。(この曲で有名になった歌手トニー・ベネットの訃報は先月だった。古き時代となった)

 

老体 元気に歩けるうちに、もう一度函館に来てみよう。

 

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