自分自身の発迹顕本について(追稿)

数年前の投稿した「自分自身の発迹顕本について」の追稿です。


発迹顕本とはハット気が付き、何か「一皮めくれる」ように、パッと人生が変わるのかと思っていましたが、違います。
宿命転換を果たし、山のいただきに上り詰めたように、人生が変わるのかと思っていましたが、それも違います。

自分自身の発迹顕本とは、題目に挑戦し、教学や御書を学び、
功徳だと喜ぶ学会員に会って「素晴らしい」と拍手し、
苦労している学会員に「一緒に題目あげよう」と励まし、
学会批判されても「学会は素晴らしいよ」と心揺れることなく、聖教新聞はいいこと書いてあるよと勧めたり…
こんな創価学会員の日常の中にあるように思うのです。

2015.8.28 聖教新聞

他でもない信心は日常のなかの大確信です。

合言葉は「前進!」

仏法上の視座から見ることが「自分自身の発迹顕本」となるのではあるまいか?

 


以上が当時の結論でした。いま改めて追稿を書こうと思います。

何のために生きるのか?何のために生まれてきたのか?と問えば 、若い時「衆生所遊楽」だと答えたでしょう。

いまよわいを重ねて「題目をあげる」ことだと簡単明瞭に答えます。
題目は絶対です。題目は正義です。題目は勝利です。題目は利他です。題目は平和です。題目は人生です。題目は全てです。

これに気づける年齢になりました。題目をあげるために生まれてきたのです。人の生死をみてきて解るようになりました。

 

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