老年に至る。

この記事は3年以上前に投稿された古いものです。

「なんせ人の一生は、死にぎわに決まるというから、迂闊うかつな老い先を送っては死んでも死にきれぬ」… この台詞せりふ気にいりました。
人の一生は最期で決まると言われます。逆手さかてに言えばその人の末期まつごを見りゃ、その人の人生が判るといったところでしょうか。

だから、さびしくわびしくヘタヘタと悄然しょうぜんと消える訳には参りません。 ‥とは言え、から元気も見透みすかされます。思い詰めたらやまいを得るだけ、とかく気の置けないのが「老年に至る」この時期です。
老後は人生の付け足しなんかではなく、人生そのものですから、気負きおわず、これまで通りでよろしいってことでしょうか?

人生の総仕上げとなるこの時期ときに、一点の曇もなく「爽やかで清々しい人生であった」と言えるほど幸せなことはありません。それは外から見えないし、誰にも解りませんが一番大切です。
自分だけが感じる人生の満足感でしょう。

「老年に至る」と肩書かたがきなんて無用です。名声も無用です。多少お金や財産があっても意味はありません。何よりも重要なことは、信念に生き切ることであり、正義を説き曲げなかったことでありますまいか?(おぉ!急に文語体になりました。)

そんな人生が、最高に幸せと言えるのではなかろうか。さすれば、少々のやまいを得ることくらい何てことはないのです。
「九仞きゅうじんの功を一簣いっきく」とのことわざあり。人生、最期になって、手を抜くわけにはいきませぬ。「老年に至る」準備をしている間に末期まつごを迎えるやもしれぬが、それはそれで結構であります。
終生、創価の庭で、爽やかで清々しい人生を!と思う次第。

おっと、かなり大真面目おおまじめになってしまった。眉間みけんしわを寄せずに垂れ目のままで「老年に至る」としましょうか。アラナイの母の次は、自分ですからね。

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