森脇屋徳助の末裔なり

モリパパ(森家)家系物語ヒストリエなど語るほどのものではありませんが、今となっては自分以外に語り継げる者はいなくなったので、正確な真偽を差し置いて、想像を巡らせながら書いてみることにしました。
少なくとも、江戸期に創作された「源平藤橘げんぺいとうきつ」をみなもととするような武家の家系図よりマシだと思っております。

ルーツをさかのぼれるものは戸籍と墓石です。戸籍は150年保管されるとのことですが、本籍を転々とする間にさかのぼれなくなってしまいました。また既に「墓じまい」してしまったので、過去帳はおろか先祖代々の墓も残っていません。たまたま墓じまいするとき父が墓碑を写したメモがありました。これを拠り所にしました。

父の出身地は鳥取県米子です。万福寺に森家の墓があったそうでその墓石の最初に刻まれていたのが、森脇屋徳助もりわきや とくすけです。天保8年(1837年)4月15日没とあります。

 

森脇屋は屋号で苗字(姓)ではありません。商売をやっていたのでしょう。場所は鳥取藩 境港さかいみなとでした。
江戸後期から明治にかけて最盛期を迎えにぎわったようです。既に徳助のころ、寛政年間(1789~1800)には北前船の寄港によって、境港は潤っていました。

徳助の出生出自は分かりません。天保8年(1837年)に没したので江戸時代後期、文化文政(1804~1830年)のころの人でしょう。
余談ながら、伊能忠敬(1745~1818年)、高田屋嘉兵衛(1769~1827年)、葛飾北斎(1760~1849)も同時代の人です。江戸文化が花咲いた頃でした。

小浜の写真師、井戸米蔵が明治末期から大正にかけて撮影された北前船(WIKIPEDIAより写真転載)

北前船は、上方から瀬戸内を通り、関門海峡を廻って日本海を北へ航行して、蝦夷へわたったのです。

其々の寄港地で商売しながら蝦夷を往復しました。物流の大動脈でありました。
当時は太平洋側より日本海側で経済文化が殷賑いんしんを極めました。

上方からは酒や米、衣類を積み、蝦夷からは鰊の魚粕ほしか、荒巻鮭や昆布を積み、各寄港地の廻船問屋へ商材を卸していった。
この時代になって、こめ経済から木綿などの商品経済に大きく変化しました。境港は伯耆ほうき綿で賑わった。ところが明治以降、木綿は英国綿に席巻され、日本産の綿は壊滅同然となってしまった。

徳助の森脇屋は、北前船の廻船問屋として幾分の財をなしたが、幕末から明治に入り木綿の商いの衰退と共に店を閉じた。祖母 ため は生前、伯耆綿の品質の良さを我が事のように自慢していた。

既に、売却処分してしまったが、森家には三振りの刀が伝わっていた。うち一振りは軍刀、あと二振りは江戸時代のものだった。
士農工商の身分制度から言えば最下位の商の身分であった徳助に、苗字帯刀が許されたとは思えない。おそらくは後の養子縁組で刀が伝わたと見ていい。

徳助は一男二女の子があった。長男は夭折し長女ツネ(1866/5没)、次女デン(1889/4没)の娘二人は成人した。デンは何と享年101才という長寿だった。デンは子供を授からなかった。
この時代、子供がいなければ養子を貰うのはごく自然だった。特に子沢山の親戚に相談すれば、話はすぐにまとまった。

1963年頃の米子市駅前

姉ツネの子の ため(1964/12没68才)を養女に迎えました。

ツネは米子の小学校教師の栄藤に嫁いでいた。その子ためが森家に養子に入るとき譲り受けた刀が森家に伝わった。

後に、ため政孝(1980/11没)を婿養子に迎え、森家を継がせた。ここに至って、森脇屋徳助の血筋は無いも等しく、生物学的に繋がっていません。ただ森家の系譜となってしまっています。

政孝の出自は分からりませんが、銀行員だったから商家の筋だったのでしょう。当時米子には米子銀行しかなかった。だが、政孝が米子銀行に勤めていたかどうか不詳です。

政孝ための子は長女、長男茂雄あつお、次男眞佐夫まさおだった。茂雄が私の父で、米子中学校を卒業し、東京の高等師範学校へと進んだ。
長男には教育にも金もをかけたが、次男は「厄介やっかい」といった気分が残っていた時代で、真佐雄は中学にも行けなかった。

森家の長男が教育界の最高学府、東京高等師範に進んだことは、森家の誇りであった。特にための実家の栄蔵は小学校教師のだっただけに、飛び上がるほど喜んだ。茂雄は森家の自慢だった。

森茂雄 箱根駅伝に参加

父茂雄は、高等師範のとき箱根駅伝の第7区を走った。家族の中で唯一スポーツマンであった。

時代は戦時中、学徒出陣の後についに招集され満州へ行った。
満州で上官と喧嘩し、右人差指を負傷し内地に還された。広島大本営に出頭、福知山へ転属した翌日、広島の原爆を知った。父は幸運にも戦わずして終戦を迎えた。

日本という国は、明治末期から大正の「踊り場の時代」を経て、封建時代の残渣というべき地縁や血縁に依らず、個人の能力によって職業を得ていく時代になった。さらに戦後日本の変革は家長制という家族主義が崩壊した時代だったといえます。

戦後は混乱期であったが、父茂雄は岡崎中学の教員募集に応募し採用となった。地縁も血縁もない岡崎の中学校に勤めることとなった。岡崎中学はすぐに新制の愛知第一師範学校となり、その豊川分校が勤務先となった。後の愛知教育大学です。

茂雄は、岡崎勤務の頃に芳子と結婚した。茂雄がアキレス腱損傷で入院中に芳子と出会って結婚することとなった。二人は恋愛結婚だった。時代は変わった。日本の家族は結婚観まで変えていった。戦後で物資の無いなかで家族だけの結婚式が行われた。

戦争の世紀といわれた時代に、多くの人が戦争で命を落とした。自由は制限され人権は蹂躙された。フェイクとデマで混乱した。しかし戦後になると、人々の雰囲気は一挙に解き放されました。
貧しかったが、自由な雰囲気に人々は酔った。そして人々はまっしぐらに高度成長、その先に世界的な経済ショックを何度も味わう「経済の時代」となった。

その後、父茂雄は岐阜県教育委員会に転出した。岐阜県立の多治見北高校、美濃加茂高校、本巣高校に転じ、羽島北高校の校長を最後に退職した。

退職後まもなく住み慣れた岐阜の家をたたみ、静岡県掛川に家を新築し引っ越した。その6年後、父茂雄は75才癌で亡くなった。

1999年3月ニューカレドニアのIls des pinにて

余りに、転勤転居が多かったせいか我家は、家に対する未練がない。

静岡県掛川の家も父が亡くなった後3年後には、まだ新築の匂いがする家を売却し、母は妹の暮らすニューカレドニアへ移住した。18年間も暮らした。

2015年に母芳子は日本に戻り長男の一夫と暮らすこととなった。私一夫は54才のとき妻を亡くした。長男大一郎が20才、次男義久が18才のときだった。今では共に家庭を持ち子供(孫)もいる。

身分や格式といった出自来歴に関心が及ばなくなるまで、日本では長い時間がかかった。いま人権というかたちに置き換わって、個人が尊重される時代になった。人種や出自によって差別されることのない時代となった。

マンション住まいで「鯉のぼり」年に一度
も揚げるところもなく、虫干しをしてます。

これから半世紀50年後は孫たちの時代。

5月5日のこどもの日に鯉のぼりを虫干ししてみたら、吹き流しに家紋が染め抜かれていた。

半世紀もしたら、孫の誰もが家紋があることさえ忘れ去っていることでしょう。時代は変わるでしょう。

日本の家族は変化するでしょう。Familyは繋がっていても住む場所も自由化されて暮らしていることでしょう。
日本の家族制度や地縁、血縁のルーツなどにこだわりを持つこともなくなることでしょう。

そのためにも、是非、戦争のない平和な世界をつくりあげて欲しいと願っています。

 

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