うらやましい人、牧野富太郎

東大の助手として勤め始めた富太郎は、小学校中退で学歴がない故に、大変な苦労を背負って研究していたようです。
なんせ学閥、学歴の頂点とも言うべき東大です。いくら才能あっても、努力しても、学歴のない者は侮蔑される世界です。

富太郎23才の時、最初は「植物に熱心な青年が高知から来た」と、歓迎してくれた矢田部教授でしたが、富太郎の『大日本植物志』の編纂という仕事に対して妬みを覚えるようになり、富太郎を、”植物学教室出入り禁止”にしてしまいます。

『日本植物志』の自信作が、返って矢田部良吉博士の妬みを買うこととなり、学校の標品や書物を見ること全て禁止されてしまいます。大学からみれば、私は単なる外来者であって、大変困ったようです。

その後も富太郎49才のとき、松村教授からも忌諱ききにふれることになってしまいます。翌年、講師となりますが、これとて資格の定まらない扱いで、疎まれました。

しかし富太郎自身は、『大日本植物志』の編纂という大事業に、自分の使命を感じ、これに没頭、打ち込んでいくのです。

生来せいらい絵心えごころがあって、自分で写生なども出来る。そこで特に画家を雇うて描かせる必要もないので、まずどうにか独力でやってゆけると考えた。一年間石版屋へはいって、石版印刷の稽古をした。

…と言っています。どうにか独力でやっていけるどころか、画家も顔負けの実力を発揮しています。その描画の精緻なことは、専門の画家さえ及ばず、富太郎の植物を見る目と、分類学への知識から、植物誌を制作する才能には、右に出るものがいなかった。

私は従来学者に称号などは全く必要がない、学者には学問だけが必要なのであって、裸一貫で、名も一般に通じ、仕事も認められれば立派な学者である、学位の有無などでは問題ではない、と思っている。

…と富太郎は主張しています。たまたま博士号を取得したのも、冷遇・孤立していた頃に、書き貯めた論文を博士論文として提出したもので、博士号を取得するために書いたものではなかったようです。

昭和14年9月牧野77才

77才の時、東京帝国大学へ辞表を提出、東大講師を辞任していますが、これも蔭の画策に憤ってのようであります。

四十七年間もの長い間講師を勤めたが、辞めるについて少なからず不愉快な曲折があった。辞表提出を強要するが如きことは、許すべからざる無礼であると私は思う。

…これが富太郎の気持ちであります。

学位や地位などには私は、何の執着をも感じておらぬ。ただ孜々ししとして天性好きな植物の研究をするのが、唯一の楽しみであり、またそれが生涯の目的でもある。

富太郎が詠んだ「都々逸どどいつ」について、「私が作ったものだが、私の一生はこれに尽きている。」と言っています。

草をしとねに木の根を枕、花と恋して五十年

富太郎の学者としての人生は、平坦ではなかった。しかし植物を愛し、その研究に我を忘れ、嫉妬や悪意に翻弄されずに生き貫いた生き方は、清々しさを観る思いであります。

「頭は白髪を戴いて冬の富嶽の様だが、心は夏の樹木の様に緑翠である。」と言って恥じない、富太郎でありました。

(次ページに続く)

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