富太郎は、64才から94才で没するまで30年間、大泉で暮しました。ここでの人生が、実り多き大きな仕事をなしたと思います。
彼の書斎の上には「条書屋」と書かれた額が鴨居に掲げられていたそうです。この条とは、草木が生い茂るという意味だそうだが、ここ大泉での富太郎の晩年こそ「英気ぼつぼつ、壮者をしのぐ」時期だったと言っています。
この九十二歳になっても、
英気ぼつぼつ、壮者をしのぐ概がある。そしてなお前途にいろいろの望みを持って、コノ仕事も遂げねばならぬと期待し、歳月のふけ行く事をあえて気にする事なく、日夜わが専門の仕事にいそしんでいる。そのセイか心身ともにすこぶる健康で、いろいろの仕事に堪えられる事は何よりである。植物が好きであるために花を見る事が何より楽しみであって厭く事を知らない。まことにもって仕合せな事だ。
花に対すれば常に心が愉快でかつ美なる心情を感ずる。
故に独りを楽しむ事が出来、あえて他によりすがる必要を感じない。
故に仮りに世人から憎まれて一人ボッチになっても、決して寂寞を覚えない。実に植物の世界は私にとっての天国
…とまで言っています。奇人変人でもいいではないか、まことにうらやましい人であります。
高知県知事だった橋本大二郎は、随筆「うらやましい人」の最後に、こんな一節で締めくくっています。
たとえ尊敬などされなくても、後生、ひと様にうらやましがってもらえるような日本人になりたいものだと、牧野さんの生き方を知るにつけ、つくづく思うのだ。
東大泉で過ごした日々こそが、富太郎の人生至福の時期だったのでしょう。
山へ採集に出かけられなくなった90歳ごろから、富太郎は大泉の自宅で長い時間を過ごすようになりました。庭に移植した植物を採集したり、標本を整理したり、時に、訪問客と尽きることのない植物の話題に花を咲かせていたそうです。病床につく93歳まで、家族の心配をよそに寝る聞を惜しんで植物の研究や、書き物を続けたエピソードが多く語られています。
牧野記念庭園情報サイトより
人生の総仕上げとなるこの時期に、一点の曇もなく「爽やかで清々しい人生であった」と言えるほど幸せなことはありません。
それは外から見えないし、誰にも解りませんが一番大切です。
自分だけが感じる人生の満足感ではないかと思います。
まことに、うらやましい人、牧野富太郎であります。
<<参考資料>>
(おわり)