日独の戦後、その違いについて

ドイツは過去とどう向き合ってきたか」という本は、著者;熊谷徹の力作です。10年前(2007)の出版ですが、色褪せる内容ではありません。
政治、教育、司法、民間にわたって、戦後のドイツが、どのように過去と向き合って来たか?踏み込んだ取材内容はすばらしい。
熊谷の独自性もあり、良く推敲され、纏まっています。ドイツを知る上で読んでよかったと思います。(「日本とドイツふたつの戦後 」より先に、こちらを読むべきだった)

このブログ冒頭に、「日独は昔も今も所縁ゆかりのある国だ」と書きました。確かに共通点は多いのですが、文化の深層において、実は似て非なるところを感じているのです。

ドイツの「歴史と向き合う」「過去の過ちから目をそむけない」「ドイツの過去と対決する」といった姿勢に、何ら疑問を投げかけるものではありませんが、文化の深層部というか、思想・背景にキリスト教的な考え方を感じるのです。
贖罪しょくざいとか懺悔ざんげといった概念が横たわっているような気がします。キリスト教の語彙から来るもので、仏法にはありません。
仏法には、宿縁とか宿業といった生命輪廻からくる語彙があり、これは受入れやすいのです。逆にキリスト教には無いようです。

少々仏法を学んできた者として浅学を顧みず言えば、「宿業の歴史としない」「過去の過ちに頭を垂れ、その宿命を変革する」「宿命をバネに使命にする」といった表現になるでしょうか?
決して贖罪とか懺悔へ繫がりません。宿業や宿縁の先に、きずなや慈悲へ向けられる精神文化を持っているように思うのです。
決して「対決」が出ないで、「調和」の彼方を見つめるのです。

絆や慈悲は決して弱々しいものではありません。「宿命を使命に」と決然と迎え撃つ精神性があります。僕らには、こういったいい方が、何故かに落ちるのです。合点がいくのです。

煩悩即菩提ぼんのうそくぼだいといった思想があります。「煩悩のたきぎを焼いて菩提ぼだい慧火えいか現前するなり煩悩即菩提と開覚す(御義口伝p710) 」とあるように、人間的な我欲(苦悩)があるからこそ、幸福の境涯を築けるといった考え方です。宿命を使命に、戦争を平和に変える発想が生まれます。

例えば、沖縄の米軍「核ミサイルメースB基地」跡地に創価学会の沖縄研修道場が建設(1977年)されました。
その敷地内に取り壊されずに残っていた“ミサイル発射台”は1984年に池田名誉会長の提案で、6体のブロンズ像が建つ「世界平和の碑」へと生まれ変わりました。これこそ仏法の思想です。

 

それにしても、日本の教育は、過去の戦争への過ちより、戦争の悲劇が強調されすぎました。
それは世界で唯一、被爆の国だったからでもありますが、被害者としての反戦キャンペーンばかりで、加害者としての視点が損なわれてきたのも事実でしょう。これは大いに反省すべきところです。
ドイツでの国際教科書会議や共同編集など見習うべきでしょう。

(終わり)
生半可な投稿になってしまいまいました、悪しからず。

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