日独の戦後、その違いについて

この記事は3年以上前に投稿された古いものです。

1930年代の第二次世界大戦という時代は、言ってみれば人間の中に潜む狂気をむき出した時代だったと思います。殆どの人が、戦争のもとに人格を、人間性を失い、悲惨を舐め尽くした時代です。

先日、上野駅の中にある書店に、ぶらりと入ったら、何と「夜と霧」が平置きにしてあった。

【夜と霧 新版】…それでも生に然りと言うに書いた通り、この本はナチス強制収容所でのフランク自身の体験から書かれているものです。
本の内容はかなり重いのです。人生を深く理解するとはどういったことか、考えさせるほど奥の深い本です。こんな本が平置きされているなんて驚いた。

他にも、ハンナ・アーレントの映画がヒットしたり、アイヒマン・ショーの映画も反響を呼んだり、日本でもナチスの非人道性に対して関心を寄せられることは多いと思います。

日本には強制収容所とか絶滅収容所と呼ばれるようなものはありませんでした。だから戦争の加害者としての日本に目が向けられなかった点があるのでしょうか?

戦争の体験は、殆どが被害者での視点です。ドイツのように加害者としての視点に欠けています。加害者として過去の戦争に向き合ったドイツの思想家、政治家に敬意を表さざる気持ちにはなれません。

投稿;日独「歴史認識」の差異でも触れたように、外交、特に近隣諸国との関係では、日本とドイツの対比が際立ってきました。
最近の日本と中国、韓国との関係は、外交に失敗していると言っても過言ではありません。

その点では、与党となった公明党の役割は大きい。

習近平との会談(2015年10月15日)、ムン・ジェイン大統領との会談(2017年11月23日)など、自民党には果たせなかった橋渡しを担ってきた。

その背景については、改めて機会を儲けたいと思いますが、自民党(安倍首相)にはできない近隣諸国との外交を、公明党が一手に引き受けているのです。

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