春待ちどうしい恵み野中央公園です。まだ人数は少ないが散歩に来る方が増えました。そういえば昨日は啓蟄(3月6日)でした。
公園の中の小川の水音は生き生き聞こえるようになりました。
そして枯れ木の枝先が膨らんできたように思うのは、気のせいかしら?
春に向けて季節が刻一刻と進み始めた。それだけで気持がほぐれてくる。
雪国育ちでない者には馴染みがないけれど「根開き」という季語があります。「木の根開き」、「雪根開き」などと呼ばれる現象で、俳句では春の季語とされています。
木の体温で根元の雪が解けていくように見えます。雪から雨に変わる頃、二十四節季は「雨水」の頃をさす季語なのでしょうか?
「雨水」は2月19日頃のはずですが、北海道では3月初旬に遅れて来るようです。雪から雨に変わる頃までに春を感じます。
今年は雪が少なかったそうです。人が入らない林で積雪は50cmほどでしょうか? 白樺の木の根元の「根開き」が綺麗でした。
根開きを木温と呼ぶ人もいるそうですが、生きていいる木に体温があるようで不思議です。
北海道の季節にはメリハリがあります。日一日と春の暖かさを感じます。これから加速度がついて春が進みます。楽しみです。
恵庭に来て初めての冬、驚いているのは冬の寒さと雪です。まだ2月なので当然と言えば当然ですが、雪が降ったり止んだり。
ここ恵庭で雪が降リ始めたのは昨年11月30日だった。12月に入って本格的に雪が積りモノクロームの世界になった。このモノクロームの世界が3ヶ月も経とうとしている。
今朝(2月27日)も朝4時頃から除雪車が街なかに走っていた。
除雪の雪山がうず高くなっていく。
雪国育ちでない者には「また雪か?」とため息が出るような長い冬の季節です。
夜が明けると快晴の陽射しにホッ。
予報では明日(2月28日)から全国的に暖かく、北海道も気温は+7,8℃になるそうだ。 ありがたい。これでモノクロームの世界ともお別れかと期待する。
記念に写真でもとっておこうか?と思い立ち、近くの道の駅「はなふる」へ出かけてみた。春は花が咲き乱れる「はなふる」も雪化粧。半ば、なごり雪になって欲しいとスナップ写真を撮った。
しばらくは三寒四温と寒暖くり返すだろうが、春へと進む期待が胸をふくらませる。冬の終わりが近づいていると思うと楽しい。
蝦夷が北海道となったのは明治に入ってのことだが、蝦夷県でも北海県でもなく、北海”道”と命名されたには訳があるように思います。自説ながら県より道は広大で、行政上重要だと思ってる。
幕末は尊王攘夷の只中にあって、禁門の変を呼び、長州征伐に及び、日本は明日をも知れぬ混乱期にありました。
その頃、坂本竜馬は勝麟太郎に相談して蝦夷開発のため軍艦を都合してもらおうとしていた。龍馬も夢見た蝦夷地開発。
しかし当時の幕府にそんな余裕はなく、家茂が上洛するのしないの、それも陸行か海路かなどと揉てる最中。
そんなことを他所に将来の日本を見つめ竜馬はとんでもない発想をしていたのです。もし竜馬が生きて軍艦を操って、北海道に渡っていたらどんな事になっていたか?なんか想像するだけで楽しい。
幕末期は、命さえ顧みないで、赤誠を誓って潔く生死をかけた人々が大勢いました。天下を憂い、義を尊び、理想に燃えた若き志士です。しかし、そのほとんど命短くこの世を去りました。
榎本武揚も北海道開拓に夢を見ました。ご存知の通り徳川時代の終焉、即ち戊辰戦争の終結は榎本を総裁とする箱館戦争でした。
いよいよ、江戸開城のとき勝麟太郎は西郷吉之助に「軍艦だけはどうにも思うようにならぬ」(榎本釜治郎)が言うことを聞かないと言った。
実際の実務を扱っていた榎本釜次郎(武揚)は江戸開城を承知しなかった。
勝の説得にも関わらず、榎本は主艦開陽丸以下八隻を率いて脱走。北海道に渡って箱館戦争に至るのです。新天地、北海道に事実上の新政権を作ろうとした。その「蝦夷共和国」の構想も敗北とともに八ヶ月で頓挫してしまった。
榎本武揚という男は勝麟太郎と同じ江戸の貧乏旗本でシャキシャキの江戸っ子。勝より13才年下で、勝の長崎海軍伝習所に学んだあと、幕府の開陽丸の発注に伴ってオランダへ渡航(1861~1867)した。その榎本が最新鋭の主力艦である開陽丸を率いて北海道へ脱走したのです。そして翌年、最後の戊辰戦争となる箱館戦争に及んだのです。
この戦争終結に自刃覚悟の決意のなか、大鳥圭介(陸軍奉行)の一言で投降が決まり、榎本武揚(総裁)以下は官軍に投降するのです。
官軍参謀だった黒田清隆は榎本を「これだけの人物、刑に処するは何とも惜しい」と、大久保利通、西郷隆盛に懇願し、榎本を赦免させ、官途に就かせて自分の輩下にしてしまった。
榎本武揚については函館戦争(明治5年)敗退を境に、幕末の榎本と明治の榎本が異なります。これを変節とか裏切りとかいう者はいたが、勝に宛てた榎本の手紙に有名な一節があった。
褒貶は人にあり、行蔵はわれに在り
毀誉褒貶は人が決めること、出処進退は自分が決める。…と云っています。福沢諭吉はこれを「痩せ我慢の説」と評したらしい。確かに「尻を捲った感」否めない。彼の行動はいささか顰蹙を買う場面も少なく無かった。だが自の行動に自負を持っていた。
その後、榎本は樺太千島交換条約の交渉のため、ロシアへ特命全権大使として渡ります。幕末から明治初期、世界から見れば日本ほど小さな国はなかった。隣国ロシア帝国の南下政策と侵略に脅威を感じ、怯えていたのは事実でありましょう。
西郷隆盛の征韓論も、その真意は韓国の先のロシアの脅威に対して唱えられたものだったし、榎本の樺太千島交換条約(明治8年)も大ロシア帝国の侵略に脅威を感じたための交渉でもありました。
後年、日露戦争(明治37~38年)で日本が旅順203高地を落とし、バルチック艦隊を破り、ポーツマス条約(明治38年)で領地が確定されるまで、ロシア帝国は日本にとって脅威そのものであった。
今のウクライナで起きていることが、この北海道を舞台に起きるのではないか?と切迫した脅威が、幕末から明治初期の日本に在ったのであります。
榎本に話を戻します。ロシアに接する日本、殊に北海道の樺太千島の領有問題に初めて手をつけ、交渉に挑んだのが榎本だった。
明治初期、未発達な国家であった日本は「国家とは何か」と手探り状態だった。廃藩置県と廃刀令で武士は身分もその職も取り上げられてしまった。ただの平民となってしまった。
そして日本国家に立ちはだかった最初の問題が領土問題であった。樺太千島を含む北海道を舞台に、ロシアからの脅威だった。
蝦夷から北海道へ新しい時代へ向けて新出発したとする向きもあろうが、実は「国家とは何か」模索しながら歩んだ問題のなかに他国の脅威があった。その先鋒こそが北海道であったのです。
蛇足ながら、私の出身校である東京農業大学は榎本武揚を”建学の祖”としています。後の理由付けとしか思えないが、榎本が「育英黌農業科(現在の東京農業大学)」を創設したことによるらしい。彼に教育熱が在ったとは思えないが「褒貶は人にあり」ということにしておこう。
支笏湖は新千歳空港から西へ42Km 標高248mの不凍湖です。冬季、湖畔で「氷濤まつり」が行われています。
自宅から日帰りで行ってきました。出かけた日は寒波が来て、零下10℃を超える寒い日でした。外で1時間半も過ごしてたら芯から冷えてしまいました。
幸いにも小雪がぱらつく程度で氷濤を見て回ることができて、写真を撮ることができました。
氷濤を見ているだけで寒い。凍りつくような寒さとはこういうモノかと思います。でも支笏湖ブルーを見に多くの観光客が来ます。氷濤はスプリンクラーで作った人工物ですが、支笏湖のボート乗り場の氷柱は自然にできた支笏湖ブルーです。
寒い、寒い氷濤を見に大勢のお客様がやって来ていました。夕方からライトアップするので、泊りがけで来られるお客様もいて、観光地は大賑わいです。
札幌雪まつりは176万人の来場で賑わったとかで、2月11日終了しました。そしてすぐに崩され撤去されてしまったそうです。
氷濤まつりは氷の塊なので簡単に撤去できないと思います。溶けるまで待つのでしょうか?どうでもいいような心配をしながら支笏湖をあとにしました。寒かった!寒かった!