台湾の親日感情の由来

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隣国である韓国と台湾の対日感情が余りにも違い過ぎます。どうしてこんなにも違ったのでしょう? 歴史を探ってみると面白い。

日台は『感情の関係』だ。普通の外交関係は国益が基本だが、日台は特別。お互いの好感度が抜群に高い。戦前からの歴史が育てた深い感情が出発点となっている。

という人もいます。台湾の親日感情の由来を遡ってみました。

台湾との本格的な歴史は、明治28年(1895年)から始まりました。日清戦争の戦後処理(下関講和条約)によって、清国から台湾の割譲を得た日本。そこから台湾と日本の歴史が始りました。

日本の台湾統治は、日本総督府によってなされました。台湾総督は軍人が当り。民生長官は文官が政策の実務を行いました。

原敬
平民宰相 原敬

後に平民宰相と呼ばれた、原敬はら たかしは当時、明治28年、台湾統治に関する意見書を書いてます。此処に原点を見る気がします。

その考えは、当時としては実に進歩的なものであった。まず、「台湾を植民地、即ちコロニーの類と見なす」考えを甲とし、「台湾を内地と多少制度を異にするも、これを植民地と見なさない」考えを乙としたうえで、敬は乙案をとるべきと訴えている。また、同化政策をとり、台湾総督は文官から任命するように主張している。後年、後藤新平の民政長官時代に英国流の植民地政策が導入されるが、根本方針は啓が提議した考えに負うところが大きかった。(「颯爽と清廉に 原敬」上巻 第5章 p.303より)

このようにして台湾の統治を英国流の植民地、例えば、香港のような形で統治しようと考えていたことが解ります。

これに比べて韓国では、西に中国、北にロシアを控え地政学的にも違っていたし、日本は満州政策を進めており、この日本の政策への警戒感から、三国干渉を招いていました。
こういった環境下の韓国では、台湾とは全く違った統治となったことが理解できます。

話を台湾に戻しましょう。初期の台湾総督は、樺山海軍大将、桂陸軍中将、乃木希典陸軍中将と軍人が当りました。しかし、いずれも1年程度の短い任期で終えています。

児玉 源太郎

ところが、第4代台湾総督となった児玉源太郎陸軍中将は、実に8年2ヶ月に及びました。
児玉は後藤新平を民政長官に抜擢し、就任後、自身が陸軍大臣・内務大臣、満州軍総参謀に進転しても、実質の統治を新平に託し、自身は台湾総督を兼務し続けました。本音は新平を総督にしたかったようですが、軍人でない新平を総督にはできなかった。(台湾軍の創設後、T8以降は文官も総督の任につけることになった)

後藤新平

新平 42才から50才。将に男、働き盛りの時期の8年間を、台湾で民政長官として働きました。(まだ、愛妾きみと出逢う前のことです。)

実は、台湾に赴任した後藤を待っていたのが、若い時に大変お世話になった同郷(水沢)の阿川光裕です。
阿川は、1年半も前にアヘン漸禁のために衛生顧問となって、台湾に赴任していました。奇しくも、台湾で新平と阿川は再会し、肝胆相照らすこととなります。

形の上では、新平が阿川の上司となったのですが、二人だけになると昔と同じ様に、阿川は新平を呼び捨てにします。新平も阿川には頭が上がりません。
台湾統治にあたって、新平は阿川から様々な助言を得ることになりました。それが新平の台湾統治の実務的方針に役立ちました。

一番大事なことは軍人の横暴を押さえることだテ。
この台湾、李鴻章全権は、わが方の伊藤全権に向かって、よほど上手くおやりにならんと、阿片と土匪に手を焼きますぞと忠告したということだ…

いままでは土匪討伐…ただこれだけさ。他のことは何一つやっとらん。 統治とは即ち討伐のことだ。
土匪の中でも、善良な分子に対しては、懐柔策に出て、これを味方に引き入れることだ。
(「大風呂敷」蛮爵 p413~442 より部分的に引用 )

こうして新平は阿川の貴重な実務的な助言によって台湾統治に当たったのです。新聞に「台湾総督土匪に降りる」などと酷評されたこともあったが、これまでの土匪討伐政策は一変しました。

新平の優れたところは、阿川の助言を能く聞き入れたこと、人材を集め起用したことでしょう。新平は新渡戸稲造という逸材を台湾に招くことが出来たのも手柄の一つです。

新渡戸 稲造

新平に稲造を推薦したのは菊池武夫でした。菊池の妹 澄子は稲造の兄 道郎と結婚してたが、道郎は25歳で早逝、澄子は実家に戻ってた。新平は遠く人材探していたところ、菊池から稲造の推薦を受けたのです。

稲造の妻メアリー・エルキントンMary P. Elkinton はアメリカ人です。新平が稲造をスカウトしようとした時期、稲造はアメリカで、病気療養中でした。
新平は、この逸材を獲得するため、長い電報と執拗な手紙で説得しています。
稲造は、あの名著「武士道」Bushido: The Soul of Japanを著した翌年で、これから北海道の教師に就くか、考えていた矢先の時期でもあったのです。

新平の執拗な求めに応ずることとし、アメリカから日本に帰国するや、その足で台湾に赴任することになりました。新平は、稲造を官吏として身分不相応な高給で遇したそうです。

少々脱線しますが、新平と稲造は、M35年(1902年)5月から欧米旅行に出ます。Vancouver、Chicago、St.Louis、Washington、New York、London、Paris、Berlin、Moscow を半年かけて漫遊しています。稲造は英語が堪能で、新平は台湾民政長官です。先々の大使館や領事館では、稲造の「武士道」が評判になっていました。新平も稲造もこの旅で人脈を広げたようであります。
(この漫遊の詳しいことは不詳です。ただ、半年も共にしていれば、新平と稲造が仲が想像できます。しかし、誠に羨ましい漫遊であります。)

稲造の台湾での仕事は、まず各地を廻り、台湾には製糖事業の可能性を見極めることでした。その結果稲造は「糖業改良意見書」を書き上げています。それまで零細な製糖業だった台湾を、日本の台湾製糖業へと確立し、ハワイを凌ぐ産地とさせました。

その他、新平の施策は、上下水道の整備や 八田與一烏山頭ダムや嘉南大圳の用水路、水力発電所を初めとするインフラ整備にも積極的に取り組ませています。

太平洋戦争が終結(1945年)まで、実に50年、半世紀にも及ぶ日本統治が続きました。更にこの時代に特筆すべきことは教育です。
台湾から日本へ多くの学生が留学し、優秀な人材を育てました。例えば、後に台湾総統となった、李登輝も京都大学で学んだ一人です。教育は百年の計を図るとは、言い得て妙であります。

こうして日本と台湾の関係の基礎が出来上がった様です。日本の大正デモクラシーでの立役者が、そろって台湾を舞台に集まっていたのです。面白い歴史であります。こうして台湾に日本文化が根付き、今日の親日感情を育んだのかも知れません。

本当はここで終わっておくべきだったのですが、
蛇足ながら、次ページを書いてしまいました。