新しい21世紀に入ってみると、民主主義の脅威としてのポピュリズムが突きつけられることとなりました。
ミュラー(Jan-Werner Müller)は「ポピュリズムが傷つけるのは民主主義それ自体である」と言っています。誠に明確です。
まさに「ポピュリズムとは何か」考えざるを得ない時代を、いま迎えています。
ポピュリズムは、ディナーパーティーで酔っ払ったゲストに似ている。そのゲストはテーブルマナーを守らず無作法で「他のゲストの妻に手を出し」始めるかも知れない。(…とBenjamin Arditi;UNAMは揶揄しました)
本来、民主主義は多元的で、多様性に富み、自由かつ公正を保つために必要だと 思われてきたのですが、これがポピュリストの出現によって、専横的な主張を横行させてしまうこととなってしまいました。
実は、近代の代表制民主主義の導入こそが、ポピュリストを出現させた遠因です。ポピュリストは「自分たちだけが人民を代表するのだ」と堂々と主張します。排他的で、分断を呼ぶ主張です。
ポピュリストは勝者になった後も、犠牲者のように振る舞い続けマジョリティの虐待を受けるマイノリティーのように振る舞っていますが、それは専横的な爪を隠す手段でしかありません。
ポピュリズム、それは出来もしない政策を掲げ、人々に媚諂う仮面を被った政治形態です。無責任な政策を正当化し、責任ある政策との区別を曖昧にし、社会的経済集団と結びつき、必要あれば政治的な階級闘争さえ利用するのです。
政権を取った瞬間、如何なる正当な反対派も認めようとせず、受動的になった人々に対して「世話人」になったような態度をとるのです。議会や国会で議論する必要などないと言い放つのです。
嘗てルソーは「一般意志の形成は、市民による実際の参加を必要とする」といっていますが、ポピュリストは自らが象徴的な代表者だと主張するのです。そしてポピュリストは民主主義それ自体を傷つける存在なのです。
トランプはこう言い放ちます。「ただ一つ重要なことは、人民の統一である。なぜなら他の人々などどうでもよいからだ。」と。
即ち、残余なき全体だと主張するのです。
ポピュリズムのメンタリティーは「勝者総取り」なのです。
ポピュリズムは、最近になって地球上に蔓延って来ています。
ハンガリーのオルバーン、ポーランドのカチンスキ、トルコのエルドアン、国民戦線(仏)のル・ペン、オランダの自由党のウィルダース、ベネゼイラのマドゥロ、エクアドルのコレア、タイのタクシン、イランのアフマディネジャドなどであります。
更に、今月(2017年10月)、オーストリアのホーファー、チェコのバビシュなど、ポピュリズムの勢いは収まりません。
成熟した民主主義国家でさえポピュリズムを許しています。まして未熟な民主主義国家では、ポピュリズムの台頭は防げません。
ポピュリストは政策が失敗しても、この様に言ってのけます。
我々は我々に権限を与えてくれたことを実行しているだけだ。もし上手くいってなくても、我々の落ち度ではない。
更に、ポピュリストはメディアが「仲介する」ことは、歪めることだと非難し、メディアを名指しで排除するようになります。
だから、トランプのツイッターで、直接呼びかけるのです。
そしてポピュリストは党内でも、権威主義になってゆくのです。党内部で意見の相違は許されません。都合の悪い意見を封じ込めるため、次々と政府高官を更迭、辞任、解任してゆきます。