自分自身の発迹顕本について

この記事は3年以上前の古い投稿記事です。

「本門の本尊」が明確になったことで「学会としての発迹顕本ほっしゃくけんぽん」が見事に実現しました。そして以来「自分自身の発迹顕本とは」について、ズーッと考えてきました。

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大白蓮華に連載されている池田名誉会長 講義“世界を照らす 太陽の仏法”9月号に、「四条金吾殿御消息(竜口たつのくち御書)」の御書講義が掲載されています。

この竜口たつのくち御書は、ご存知の通り日蓮大聖人の発迹顕本を示された重要な御書です。

今年11.18で学会創立85周年を迎え、明年(2015)3.16で「黄金の3年間」の総仕上げを迎えます。
この時期だからこそ、池田先生の御書講義を何回も読み直し、「自分自身の発迹顕本とは何か」を自問自答。

仏の願いは師弟不二です。師は弟子が「我が如く」不二なる仏の大境涯を会得することを祈っています。(p.38上段)

これは、弟子から見た師ではなく、師からみた師弟観です。
弟子からみた子弟観、師からみた師弟観があります。これが「師弟不二」の所以ゆえんです。

自身が「本来仏なり」と覚知する時、同時に、他者もまた「本来仏なり」と知ります。
発迹顕本とは、自他共に尊極の生命を開く“顕本”です。自分自身も仏、皆もまた仏です。発迹顕本は、この人間尊敬の行動を支える究極の根拠でもあるのです。

自他共に尊極の生命を開く、この自他共にが大事です。
発迹顕本とは、共に題目を揚げ、ともどもに励まし励まされて学会活動するなかに、それはあるのです。

何のための覚りか ーー 万人を幸福にするための覚りです。
目覚めてからが本番です

目覚めてからが本番です、ここが大事です。
この仏法は本因妙です。過去の栄光も、失敗も「只今の出発」の前には意味を持ちません。人間革命も成仏も「只今の出発」に全てであります。

戦いを開始した後こそ、いよいよ魔が競い起こる。むしろ、戦い続ける生命こそが「仏」なのです。
大聖人の竜の口の法難に臨まれ、御身の成就された発迹顕本は、久遠の仏の生命を、現実の大難を勝ち超える姿を通して顕されたものです。そして、今度は仏の大願と一体である根本の誓願に立って自在の力を発揮し、自由にあらゆるところに向かい、まだ本来の生命に目覚めていない人々に、「自分自身に生きよ」と呼びかける。目覚めた民衆が立ち上がってこそ、大聖人の発迹顕本は、その意義が成就するのです。(p.39下段)

「自分自身に生きよ」これぞ発迹顕本です。
自身の胸中に無尽蔵の法蔵を、現実の人生の中で開ききっていく「自分自身に生きよ」です。仏法は、実践的な哲学です。

リンゴが木から落ちる事実を見て、万有引力の法則を発見することが難しいのと同様に、本来の生命に目覚め、自身の尊貴さに目覚めることは極めて難しい。

民衆の一人一人の人間革命の大叙事詩こそ、「人間は本来偉大なり」と、久遠の生命力を開いた発迹顕本の勝鬨かちどきであると、私は宣言したいのです。(p.40上段)

戸田先生が言われた「久遠の凡夫」は、仏法上の視座から見ると「自身の尊貴さに目覚める」ことから出発しているのでしょう。
そう「人間は本来偉大なり」と自他ともに偉大であるとした、ヒューマニズムの大運動です。この大運動の後塵に続き勝鬨かちどきをあげよう。

それは、「人間よ、汝自身の尊貴さに目覚めよ!」「民衆よ、胸中の無限の可能性を開け!」との発迹顕本の法理と深く響きあうものであると確信します。(p.41上段)

発迹顕本とは、今この時に「本因妙」の信心に立つことです。「出発たびだちは今」です。今戦いをおこすのです。(p.41上段)

発迹顕本とはハット気が付き、何か「一皮めくれる」ように、パッと人生が変わるのかと思っていましたが、違います。
宿命転換を果たし、山のいただきに上り詰めたように、人生が変わるのかと思っていましたが、それも違います。

自分自身の発迹顕本とは、題目に挑戦し、教学や御書を学び、
功徳だと喜ぶ学会員に会って「素晴らしい」と拍手し、
苦労している学会員に「一緒に題目あげよう」と励まし、
学会批判されても「学会は素晴らしいよ」と心揺れることなく、聖教新聞はいいこと書いてあるよと勧めたり…
こんな創価学会員の日常の中にあるように思うのです。

2015.8.28 聖教新聞
2015.8.28 聖教新聞

他でもない信心は日常のなかの大確信です。
合言葉は「前進!」

仏法上の視座から見ることが「自分自身の発迹顕本」となるのではあるまいか?

 

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