2014年6月号の大白蓮華p.107、池田SGI会長指導選集「幸福と平和を創る知恵」より
祈りとは、決して観念ではない。現代人の目からすれば、目に見えない生命の世界は観念の産物に過ぎないと考えるかもしれません。
しかし、もし物質的な観念だけで物事をとらえていったならば、人と人との関係、人と物との関係の大部分は、偶然と混沌の中に埋没してしまうでしょう。
仏法の透徹した英知は、その混沌の奥に生命の法を見出し、事象を内より支え、動かしていく力をとらえているのであります。
「命已に一念にすぎざれば仏は一念随喜の功徳と説き給へり」(御書p.466 持妙法華問答抄)と仰せのように、瞬間瞬間に如々として来たって内より自身を支え、本源的な方向性を与えていくものこそが、最も問題とされなければならないわけであります。
祈りとは、この本源的な世界における、生命の迷いとの唯一の対決の在り方といってよいでありましょう。
そうか!祈りとは生命の迷いとの対決の唯一の方法だったのか。
そして更に続きます。
人生の坂は、一直線に向上の道をたどるようなものでは決してありません。成功もあれば失敗もある。勝つときもあれば負けるときもあります。
そうした様々な曲線を描きつつ、一歩一歩、成長の足跡を刻んでいくのもであります。その過程にあって、勝って奢らず、負けてなお挫けぬ、強靭な発条として働くのが、祈りなのであります。
だから奢らず絶対に挫けない祈りの姿勢が大事になるのです。
仏法の祈りは、単に祈っていればいいというものではない。
満々たる生命力をはらんだ矢が射られていくごとく、行動、実践をはらんでいるのであります。従って行動なき祈りは観念であり、祈りなき行動は空転なのであります。
ゆえに、偉大なる祈りは、偉大なる責任感から起こると申し上げたい。仕事に対し、生活に対し、人生に対して無責任な姿勢、どうでもいいという姿勢からは、決して祈りは起こってきません。自己にかかわる一切の責任を持ち、真剣に取り組んで
いる人こそ祈りを持つものであります。
いよいよ、責任感で真剣に祈り切っていこう。
書き足しておきます。