”その生き方に続く”ことが”人間としての生き方”

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あの人は何処かおかしいなと感ずることがあります。年をとって愈々いよいよ敏感になってくることがあります。
宗門の日顕宗だけではない。心のなかに、同様の資質を見ることがあるのです。

以下は、「池田大作全集(84)p.341」に掲載の、1944年(H6)5月24日第3回ドイツ最高会議での指導からの抜粋です。

”仏が神になったとき、インド仏法は滅亡”
きょうは少しむずかしい面もあるかもしれないが、「哲学の国ドイツ」であるゆえに、仏法哲学の観点から、少々スピーチを残しておきたい。
ドイツには、ヨーロッパで最も早く仏教研究を始めた先駆の歴史もある。

モリパパも理屈っぽい方ですが、ドイツは理屈っぽいなんてもんじゃない。哲学的な土壌があります。

偉大なる仏教が、インドで、どうして滅んだのだろうか。この点について興味深い見方がある。
ネルー首相は、仏教滅亡の理由が、ずっと疑問であり考え続けてきたという。アンドレ・マルロー氏に会ったときネルー首相は、思索の結論を氏に語った。
ネルー首相の考察は、次のようであった。
「仏陀の天才は、あくまでも仏陀が人間であるという事実にもとづいていた。人類が生んだ最も深遠なる思想のひとつ、剛毅な精神、この上なく崇高な惻隠(=慈愛)の情。さらには、神々に対してまっこうからこれと向き合った告訴者の態度」「しかし仏陀の神格化が行われたとたん、仏陀その人はこの神々と同列にくわえられ、姿を没してしまった」(アンドレ・マルロー[反転回想録]竹本忠雄訳、新潮社)

ネルーもマルローも慧眼の持ち主だ。本質を見抜く力があります。

釈尊はあくまで「人間」として生き、神々にも強く訴えた。
日蓮大聖人も、諸天である八幡大菩薩を諌められている。神にすがるのではなく、”妙なる法”をたもつ「人間」として、神を動かされたのである。

日蓮大聖人も人間であります。人間が内在している”妙なる法”によって神という諸天を動かしたというわけです。

人間が”いかに生きるか”を示す
本来、仏法は”人間の生き方”を説いたものであった。釈尊は「このように生きよ」「人生をこう生きよ」と、我が身で教えた。そこには師弟の道があった。
しかし、いつしか「人間・釈尊」は権威化され、人間を超えた神になっていった。
今でもインドの多くの人々は、釈尊を尊敬してはいるものの、ヒンドゥー教の神々のひとりのように、あがめいるようである。
「仏」とはありがたく礼拝する対象であっても、”その生き方に続く”対象ではなくなった。師弟の道も見えなくなった。

もし、日蓮大聖人を神格化したら仏法は無くなってしまう。”その生き方に続く”対象であるはずなのだ。
こうして、日顕宗は日蓮大聖人を人間を超えた「仏」として神格化してしまった。

仏教が”人間の生き方”でなくなったとき、インドでは、仏教は死んでしまった。 —これがネルー首相の結論であった。
今、宗門も、”人間の生き方”としての仏法はまったくない。
彼らは、大聖人の仏法を、「人間はこのように生きよ」という教えではなく、自分たちを権威づけるための飾りにしてしまった。
自分たちの堕落を正当化するための手段にしてしまった。まさに宗門が滅亡する姿である。

ここが肝心なところです。ここに仏法が滅亡する理由があるからです。自己を正当化するための手段として生きてはならない。

そもそも日蓮大聖人の戦いも、ある面から言えば、”仏教を人間化する”戦いであったと拝される。人間の実生活から遊離していた仏教を人間の手に取り戻し、現実の生活法として教えられた。
「仏とは、人間(凡夫)である」「人間(凡夫)こそ、仏である」こう叫ばれた。
当時、日本でも、阿弥陀仏とか、大日如来とか「仏」を遠い超越的なものとして説く仏教が流行していた。また、法華経での仏も一般には、人間とかけ離れた存在としてとらえられていた。それらを大聖人は逆転された。
「日蓮本仏論」の思想的な意義も、一つには”仏教の人間化”にあったと拝される。

宗教史上、人間を超越したものへの崇拝が、宗教だと思い込んできた歴史が、なんと多かったことか。
このような視点からみると、これまでの宗教は、シャーマニズムの延長でしか見えてこない。不思議な超自然現象を期待した、盲目的な信仰としか見えてこないのです。

「諸法実相」には、「凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして迹仏なり」(御書p.1358) ーーー凡夫は本体としての三身であり、本仏である。仏は(本体の)働きとしての三身であり、迹仏である。
詳しくは論じないが、大聖人の重要な法門である「観心の本尊」も「名字究竟」も、「等覚一転名字妙覚」も「凡夫即極」も、”仏教の人間化”という観点から見るとき、その深義に、より迫れるかもしれない。
妙法を信じ、行じる「人間」こそが、「仏」だということである。妙法の「信心」にこそ「仏界」はあるということである。

”仏教の人間化”をテーマに、ここまで言い切ることができる人は池田先生しかいない。そして多少なりとも仏教を学んだ者にとって、新鮮な安堵感を覚えるのであります。

”私はこう生きた”との軌跡を社会に
それでは、どのような人間が「仏」なのか。どういう生き方が「仏」としての生き方なのか。
日蓮大聖人が教えられたは、「社会のなかで三障四魔と戦い、打ち勝っていく」人生である。妙法のため、人間のために、広宣流布に生き抜く人生である。
そして大聖人みずから、その模範を示されたのである。その道に続いているのがSGI(創価学会インタナショナル)であり、皆さまお一人お一人である。皆さまこそ「仏」と輝く方々なのである。

阿仏房御書を思い出す。「然れば阿仏房さながら宝塔・宝塔さながら阿仏房・此れより外の才覚無益なり」と…

創価学会は、大聖人のご精神どおり、仏法を、生活の中で、人間の生き方の原理として実践してきた。大聖人が仏教の原点に還られたように、創価学会が大聖人の仏法の信心の原点に還ったのである。
あるとき、戸田先生は、一言、われわれの信心は「人間宗」と言われた。徹底した「人間主義」こそが、大聖人の仏法なのである。組織においても、リーダーが自分自身の”人間としての生き方”をつねに問いかけ、向上していこう、成長していこうという息吹があるかどうかである。
その求道心がリーダーにあれば、全体が躍動していく。人間を動かそうとすると、無理が生じ、そこから抑えつけたり、いばったりする幹部が出てくる。

自らの姿勢に「何処かおかしいなと感ずる」ことが無いよう、”人間としての生き方”を問いかけ、つねに心に染めておかねばなりません。他人ひとの姿を見る前に、つねに自らの姿勢を問いかけなければなりません。

マルロー氏に、ネルー首相は、こうも言った。
「ガンジーの言った意味は、ほぼ、『神は個の人間にあらず、神は法なり』ということです。ガンジーはまた、不変の法とも言っています。」(前掲『反回想録』)
敬うべき対象は、人間とかけはなれた神ではなく、「不変の法」である、と。マルロー氏の答えは鋭かった。
「してみると、やはりそれはアインシュタインの断言したことと同じですね。『もっとも驚嘆すべきことは、この世界が明らかにある意味を持っているということである』とアインシュタインは言っている」(同前)
この世界、この宇宙は、でたらめの無秩序なものではなく、厳然たる法則にのっとっているとアインシュタインは考えたのである。ガンジーとアインシュタインを結ぶもの、宗教と科学を結ぶものーーーそれは「法」であると考えられる。
トインビー博士もつねづね、「宇宙の背後にある究極の精神の実在」について論じられたが、私と対談した折、その”究極の実在”とは、人格神ではなく、「法」であると思うと結論された。

KeyWordは「法」です。実在する「法」であります。

その「究極の法」に生きているのが、私どもである。人類文明の最先端にいることを自覚していただきたい。
「神」は人間から超絶しているが、「法」は人間も含めた万物に普遍的なものである。正しき「法」にのっとって生きれば、だれもが平等に「仏」になり、「幸福」になるのである。
妙法に生きる人が「仏」にならないはずがない。「絶対の幸福」を築けないはずがないのである。

2015.8.28 聖教新聞
2015.8.28 聖教新聞

これが、我信ずる創価学会の本質であります。自信を持って「前進」の合言葉で人生を進めてまいりましょう。