医療の進歩は、目覚ましいものがあります。一昔前は、病院で最期を迎えるのが当り前だったのですが、どうも今は違ってきたらしい。病院はCure(治療)の場で、Care(看護・介護)の場ではなくなってきました。病院は「生かす場」として蘇生のためなら何でもやります。ゆっくり「死ぬ場」を提供してくれないのです。
だからこれからは、最期の場として、病院に期待はできません。
「おひとりさまの最期」の著者である社会学者の上野千鶴子さんは著書を「わたし自身の『在宅ひとり死』研究レポートです」と言ってます。
究極は「おひとりさまでも最期を在宅で」迎ることができるか?といったテーマに挑戦しています。
上野さん自身が、子供がいないおひとりさまだから、このテーマは切実です。
普通、そこまででなくても「ほぼ在宅、ときどき病院」といった在宅ケアで最期まで過ごせれば、確かにラッキーだと思います。
究極が判れば、最期を心配することに対して気が楽になります。このテーマは、これから重要になって来る面白いテーマです。
上野さんは社会学者だけあって、沢山の取材を通して「在宅ケア」と「在宅看取り」の条件を、以下のように纏めています。
- 本人の強い意志
- 介護力のある同居家族の存在
- 利用可能な地域医療、看護、介護資源
- あとちょっとのお金
在宅看取りには、医療、看護、介護の三拍子がそろっていることが大切。地域にこういった資源が揃っているかどうかが、重要なのです。特に看護と介護は、終末期にはとても大切です。
病棟の医療はホームの医療、在宅の医療はアウェーの医療と呼んでいます。住んでいる地域にアウェーの医療ができる医師がいるかどうかが重要なことです。アウェーの医療では、医師と患者が対等な雰囲気になるんだそうです。いいですね。
日本人の死因のTopは癌(悪性新生物)。
上野さんは「選べるなら癌死」と言います。色んな死因と比べ癌は、①死期が予期できる。②身体の生活水準が末期まで維持できる。③ぎりぎりまで意識が清明で、昏睡状態になってからが短期間ですむそうです。だから「選べるなら癌死」だそうで、頭から癌はダメなんて考えてはダメみたい。
若くして癌に罹るのは確かに可哀想です。でも超高齢になってからの癌は進行も遅く、癌は加齢現象の一つと見てもいい訳です。単に老衰で最期を迎えるより良いと言っています。
それに、超高齢化の死は「ゆっくり死」だそうです。ポックリ死なんて有り得ないそうで、「ぴんぴんころり」はありません。「ゆっくり死」のいいところは、死が予期でき、下り坂をゆっくり降りていくようなものだそうです。
今も日本では、死に場所の8割が病院で「最期は病院でむかえる」と思って疑わなかったんですが、この本を読んで、どうやらこれからは「在宅ケアで最期まで」というのも在りだと思えました。
考えは、人それぞれですから、いや病院で良いという人もOKですし、在宅でケアできるのであれば、在宅ケアでもOKといった選べる時代になって欲しい。将来そうなって欲しいと思います。
最後に究極「認知症でも在宅ケア」ができそうだと言ってます。
認知症の実態は、暴言、暴力、妄想、譫妄、徘徊などに、家族が振り回される日常生活であります。在宅ケアがどこまで可能か?とも思いますが、上野さんは認知症になっても在宅ケアができそうだということを提起しています。これは大変なことです。
「おひとりさまでも最期を在宅で」過ごすことができそうなら、なにも怖がることはない、やろうと思えば最期まで自分流に生活できる。その安心感と希望を与えてくれました。