うらやましい人、牧野富太郎

印が富太郎が住んだ処

渋谷の古い地図(大正14年12月発行)で、牧野富太郎が住んでいた当時の住所「中渋谷382」を見つけました。
現在の地図と照らし合わせて、さっそく現地を見に行ってきました。

現在の地名は南平台町4丁目辺りで、今はマンションや芸術家のスペースのような家屋になっていました。

通りの先にはセルリアンタワーホテルが見えます。そこは渋谷駅で、建設中のビルも見えています。大正時代の面影は全くありませんが、高台で昔は眺望良好だったに違いありません。

ここから東大(駒場)まで歩いて15分くらいでしょうか。
富太郎は、俗に青長屋といわれていた東大・植物学教室に、ここから歩いて通っていたのでしょうね。
T8年(1919)からT15年まで6年半、富太郎一家は此処に住んでいました。

T8年の頃といえば富太郎は57才になります。彼は31才から19年間も万年助手として薄給で東大・植物学教室に働き、ようやく講師になったのが、50才です。
講師になって12円ほど昇給したようですが、一家を支えるほどではなく、大変貧乏だったようです。
貧乏は高利貸しからの借金を重ね、借金は莫大になってました。
借金取りが来ること屢々しばしばで、その応対はいつも、妻”すゑ”の役目でした。借金取りが来ている時、不意に富太郎が帰宅しないよう玄関に黄色いハンケチならぬ、赤い旗を差し出したそうです。

富太郎の妻”すゑ”

この苦境にあって、十三人もの子供にひもじい思いをさせないで、とにかく学者の子として育て上げることは全く並大抵の苦労ではなかったろうと、今でも思い出す度に可哀そうな気がする。

…と富太郎は回想しています。富太郎54才の頃(T5年)には、「いよいよ困って殆んど絶体絶命となってしまった」と言っています。新聞記者の友人の薦めで、自分の窮状を記事に掲載することになり、これが神戸の素封家:池長はじめの目に止まり、彼の援助を受けることとなった。既に、二,三万円にもなった借金を全額返したそうです。

こうして困窮極まりない生活をしていたのが、ここ中渋谷での生活だったのです。その後、関東大震災(T12年9月)に遭い、震災後2年ばかり経ったT15年に、池長はじめの所有地があった石神井公園附近の大泉に居を構えることができ、中渋谷での赤貧の貧乏生活に別れを告げることになりました。ところが転居2年後、富太郎66才の時、妻すゑ(55才)は他界してしまいます。