日本では、敗戦ではなく終戦と言います。庶民にとって戦争は勝敗ではなく、いつ終結するのかが重要だったのです。当時はどんな時代だったのか?今では思いもつかないことばかりです。
昭和20年(1945年)の終戦の年は、1/9フィリピン・ルソン島の陥落、3/10 東京大空襲、6/18 沖縄戦の終結、8/6 広島の原爆投下、8/8 ソ連参戦と満州引上げ、8/9 長崎の原爆投下、そして8/15の玉音放送で戦争が終結しました。
日本中、殆どの人が8月15日、玉音放送や新聞で戦争終結を、ほぼ同時に知りました。
新聞社は密かに、8月12日に戦争の終結を知ったようですが、自主検閲によって流しませんでした。
まだ戦時下だったのです。
今では信じられないことですが、ラジオは家中で聞いていた時代です。
それしか情報源がなかった時代でした。
敵に知られては困ると、天気予報さえ放送禁止されていたのです。
そんななかでの玉音放送でした。戦争の終結をどう感じたのか?それは人様々です。
(モリパパの)父は玉音放送を、福知山で聞いたようです。
陸軍少尉の任官(昇進)記念に写真を撮ってます。俗に言うポツダム少尉 (少しでも多く恩給を受けられるよう、駆け込み任官の少尉) だったのです。
その写真の裏に「五内為ニ裂ク」「堪へ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍」とメモが書き残されていました。
実は、このフレーズが終戦直後、日本で大ヒットしたのです。堪え難きを堪えて生きることに精一杯だったのです。
終戦、最初に何が変わったのか?
それは空襲が亡くなったことです。
そして、広島でさえ原爆の被爆から1カ月余りで、焼け跡に市場ができました。
当時、物不足はひどいもので、社会の混乱は広がるばかり、そしてハイパーインフレを迎えます。しかし、これを庶民は逞しく生き抜きました。
沖縄戦は、実に悲惨でした。だがその真実は、当時殆ど伝えられませんでした。
戦争の本当の悲惨さを味わった人々は、死亡したか、死の淵で声もなく沈黙してたのです。
庶民は、戦時中の理不尽や報道のウソに気付き、今度は進駐軍の不条理に目を瞑らなければならなかったのです。これが終戦当時の状況でした。
進駐軍の米軍支配下になって、疎開先から教室に戻った子供たちが真っ先に行ったのが、教科書の墨塗りでした。
そして、終戦の年の大晦日には、暫く鳴ることがなかった除夜の鐘が鳴り響きました。
映画「そよかぜ」の中で歌われた「リンゴの唄」が年末に収録され、翌年(s21年)の大ヒット曲となりました。
戦後を象徴する歌声です。
この歌声で「堪え難きを堪え」のフレーズは、明るい「可愛やリンゴ」に切り替わりました。
このカラー写真を撮った、進駐軍の将兵(ジャック・A・コクラン)は、こうコメントしています。(サンデー毎日が伝えた一億人の戦後70年 P.2 より)
…子供らは人目を引き、礼儀正しく、詮索好きで、時に少しはにかみ屋だった…
砂利道の道路、夏の半ズボン、縫ってもらった白いシャツ、そしてワラ草履、これが終戦当時の素朴な日本です。
屈託のない少年が、次の時代を担い育てることになりました。
庶民の底知れない逞しさこそが、戦後日本の復興を支えたのです。庶民は戦争に負けなかった。