明治維新当時、日本の就学率は「男児43%,女児10%」だったようです。特に江戸では、裏長屋に住む子供も手習いへ行かない子供はほとんどいなかったというのです。
当時の英国調査で、主要工業国における児童の就学率は4,5人にひとりであったということですから、日本の就学率・識字率は、当時のヨーロッパ諸国と較べても、ひけをとらなかったようです。
その理由は寺子屋です。
寺子屋は全国にありました。日本教育史資料によれば約11,200校と記されてます。学制が発布(1872年・明治5年)されるまで、寺子屋は少なく見ても約16,000はあったというのですから、当時日本の人口(3,480万人)からみると驚異的な数字です。おそらく全国どこにでも寺子屋がない町は無かったでしょう。
また、士農工商どんな身分であっても、男女を問わず、寺子屋へ通って、読み書き算盤を習うのが当り前だったのです。
寺子屋では謝礼として、束脩や謝儀を納めはしたものの、寺子屋が授業料を取リ立てるようなことはなかったようです。読み書き算盤の手習いは庶民の決まりごとだったのです。手習いの無償化は江戸時代、既に始まってました。寺子屋を育った風土は、もともと日本に在ったようです。
寺子屋にはテスト(大浚い)はありましたが、等級制度もなく進級テストも無かったのです。
授業は、通常五ツ(am7:00)に始まり、御八ツ(pm2:30)に終っていました。(おやつの時間はここから来ました)
教科書は「往来物」が使われ、男女別職業別におびただしい往来物が出回っていました。その種類たるや 6,000にも及んだようです。往来物は庶民の手作りで、編纂したから沢山あったのです。
寺子屋にみる教育は、手作りそのものだったといえます。現在のようなマスプロ教育とは無縁なものでした。出来が悪ければそれなりに学ばせ、優秀なら飛び級で上級者と一緒に学ばせることが自由に出来たでしょう。競争させる教育観はありませんでした。
また、志と経済的余裕が少々あれば、誰でも就学の機会を与えられていました。
寺子屋がそうであったように、自由に登山/入門(入学)でき、決められた在籍期間は特になく、下山(卒業)もそれぞれ様々でありました。こうした就学が普通だったのです。
そして重要なことは、当時の教育・学問への考え方は「教える」より「学ぶ」ことに主眼があり「学び合う」ことだったのです。
そして差別、選抜、抜擢、競争の世界とは縁遠い、教育・学問だったのです。人を育てること、師弟ともに学び合うことは当り前だったようです。
武家には、藩校がありました。これも全国255藩に藩校が置かれ、藩校約280校そのうち187校は幕末(宝暦〜慶応期 1751~1868年)に出来たようであります。
湯島聖堂を筆頭に、主に儒家・朱子学が正学とされました。その頃、中国では朱子学は衰退していたに拘らず、日本では藩校で盛んに学ばれていたました。平安時代のひらがな文化同様、日本独特の文化となったのです。
しかし、藩校が統制された訳でなく、湯島聖堂への幕府の政治的な介入は緩やかなものでした。
各藩の藩校も、幕府から統制を受けることはなく、不羈独立の精神があり、自由だったのです。ここに「学問は神聖なもの」として扱われてきたのです。
もう一つ江戸時代の教育を語るとき、私塾を忘れてはなりません。私塾が1,500校余りあり、これまた大変な数ありました。
寺子屋の初等教育(手習い)を終えた者が、自由意志で私塾に入門しますが、藩校とは違い語学専門、医術専門などユニークな私塾が数多くありました。
京都の藤原惺窩の惺窩塾、近江商人の中江藤樹の藤樹書院、緒方洪庵の適塾、吉田松陰の松下村塾など、歴史を創った私塾もありました。
私塾は狐笈飄然の志士が集まるところでもありました。
江戸時代での学問(教育)は、官・公立、私立など「何処で学んだか」など関心はなく、「何を誰から学んだか」が重要だったのです。誰に師事したかが重要だったのです。「何処で学んだか」が重要になるのは、近代日本の学歴社会の価値観でしょう。
江戸時代の学問/教育体系は、意外に寛大で自由であったのは何故でしょう。
寺子屋の「手習い」は、職業のための初等教育で、職業的な専門訓練は、就業してから磨きをかける、といった考え方が江戸にありました。
丁稚奉公→年季奉公の手代、番頭→お礼奉公→暖簾分け(仕分け)といった職業訓練が人格を磨くと信じられていたのです。事実、人格形成は、就業の中で教育されて行きました。
そういった職業訓練とは別に、私塾などでの学問は、人として「徳」を積むこと、人徳/人格形成こそが教育の目的だったようです。そのような教育意識が故に、教育は聖業であったのです。
日本は海に囲まれた島国ですから、地政学的にガラパゴス化し易い特質を持っています。ガラパゴス化は文化ばかりか、教育にも日本独特の教育観を育てました。
最近、大阪の森友学園事件が切欠で、教育勅語に注目が集まっています。
教育勅語が渙発された当時は、日本人を国民として自覚化させる装置として大きな意味と役割を持っていました。
そして敗戦後、GHQによって教育勅語は完全否定され、国家・天皇に対する忠孝倫理が、反民主的なものとレッテルが貼られました。世界的にみても、教育史上からも、未曾有な出来事が日本で起きたのです。日本はよくぞ混乱を乗り切ったと思います。
日本の教育観を教育勅語に求めるのは錯綜しています。むしろ、日本が育んだ、江戸時代の(ガラパゴス化した)教育観の方が、
多くの日本人に受け入れるでしょう。
即ち、人として「徳」を積むこと、ある意味で儒家の教育観でありますが、人格形成こそが教育の目的だったのです。
少々脱線しましたが、そもそもの「教育」を考えるに、素朴ではあっても原点に立ち戻る必要があります。
即ち、「教育はひとりの幸福のためにある」といった原点です。
江戸末期、明治維新の頃の日本の教育を見ると、素朴でありながらも、社会のために、職業のための手段としての教育だけではなく、ひとりの人格形成を促すことが、教育の目的でありました。
「ひとりの幸福のため」といった目的意識を、教育のパラダイム(社会規範)として観るようにならなくてはなりません。
社会のための教育から、教育のための社会へ、遙かなる道程であっても、なお思索し続ける価値があるものだと思うのであります。
参考資料
日本国民をつくった教育:寺子屋からGHQの占領教育政策まで