教育のための社会へ

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SGI提言「教育のための社会」が上梓されたのは、2000年9月29日のことです。

教育に関し深く考えたことはありませんが、父は教育者でした。父に逆らい「先生稼業」を嫌って、教職には就くことはありませんでしたが、高校の非常勤講師の経験や、会社で人材開発部に勤務し、教育に関連したことはありました。

このSGI提言を読んでから、すっかり考えが変わりました。
「社会のための教育ではなく、教育のための社会」
「三権分立ではなく、教育を加えた四権分立」
が提案されています。最初に読んだ時本当に驚きました。そして今なお、新鮮なテーマで、重要性は変わりません。

このSGI提言はA4で10ページに及ぶもので、内容も平易なものではありません。そこで重要だと思う箇所だけ載せてみました。
関心あある方は、以下の表題をクリックで、内容を開いたり閉じたりしてお読み下さい

「理論と実験証明」の往還作業

そもそも教育は、子どものためのものであり、" 国家の専有物 " であってはならない。教科書検定や学習指導要領を含め、国家が教育内容の細部に至るまで深く関与する制度のもとでは、学校や教員の自律性だけでなく、子どもの個性や創造性を育む土壌も育ちません。

今後は、統一的な基準は大枠のものに止め、運用にあたっ ては現場の主体性を尊重する方向で調整していくべきではな いでしょうか。

その一方で、「学校の教育力」を高めていくために、現場でさまざまな試行錯誤が繰り返されているように、教員が互いに向上を図っていく取り組みを積極的に行っていくべきです。

昨今の改革論議の中で、「教員免許の更新制」など教員個々人の資質を問う制度も提案されていますが、本当の意味で「学校の教育力」を高めていくには、学校全体が一丸となって挑 戦をする環境こそが求められると私は思います。
たとえば、「開かれた教室」をモットーに教科や学校の枠を飛び越えて、すべての教員が定期的に自らの授業を公開し校内研修を行う制度や、近隣校との交流を兼ねた教育研修を 進めることも考えられましょう。

一般企業においても、終身雇用や年功序列を軸とする日本型システムが限界にきているように、よい意味での競い合い がなければ、人間の集団は活性化しません。

学校教育の向上のためには、教員同士が立場の違いを超え て、
" 刺激 " し " 触発 " し合う場が必要であり、ともに切磋琢磨し、連帯感を深めながら「学校の教育力」を高めていく努力が不可欠でありましょう。

また、保護者や地域関係者への学校公開日を定期的に設けたり、同じ地域にある高校・中学・小学校の教員間の意見交 換を積極的に行うことも、地域での協力関係を深める上で役立つのではないでしょうか。

学校教育の充実のために、私がもう一つ提案しておきたいのが、さまざまなタイプの学校の認可と、「実験的な授業」の奨励です。

諸外国では、一般的な学校とは異なる教育のあり方を志向する、さまざまなスクールが認可を受けて運営されています。その例としては、シュタイナー学校のような独自の教育思想に基づいた学校や、アメリカの「チャーター・スクール」、子どもが主体的に科目などを選択して学ぶことができる「フリー・スクール」などがあります。

日本においても、こうした多様な学校の存在を求める声が少なくありません。教育改革国民会議でも、新しいタイプの公立学校として地域が設置し地域が運営する「コミュニティ・ スクール」の設置が論議されていますが、一考に値するものといえましょう。

私は、教育の新たな可能性を実践的に示す意義から、新しいタイプの学校の認可要件を緩和し、一方で教育実践の成果を報告する制度を設けてはどうかと提案したい。また、既存 の学校にも「実験的な授業」を行うことを奨励し、同様に実践報告を募る制度を整えていってはどうかと思うものです。 " 学びからの逃走 " 傾向が憂慮されるなか、学校が子ども にとって常に " 学ぶ喜びの場 " となり " 生きる喜びの場 " となるよう挑戦を続けることが、教育の生命線です。 文部省では今年度から、国公私立を問わず、現場で独自のカリキュラムに取り組むことのできる「研究開発学校」の希望を募り、財政支援を行う制度をスタートさせました。

現場の創意工夫を奨励する制度の誕生を、私は歓迎するものですが、こうして積み上げられた成果を分析し、情報の 共有化を図ることによって、教育界全体の向上に資するべき と考えるのです。

かつて哲学者デューイが、シカゴの実験室学校における成果を踏まえ、教育理論を練り上げていったように、教育にお いては理論と実験証明の往還作業が欠かせません。

牧口初代会長の『創価教育学体系』や、戸田第二代会長の『推 理式指導算術』などの著作も、教育者として現場で具体的実 践を重ねる中で生み出されたものでありました。

「四権分立」の必要性

そこで私は、教育に関する恒常的審議の場として、新たに「教育センター(仮称)」を創設し、教育のグランドデザイン を再構築する役割を担っていくべきと提案したい。

設置にあたっては、一つの独立機関として発足させ、政治 的な影響を受けない制度的保障を講ずるべきであると考えます。内閣の交代によって教育方針の継続性が失われたり、政治主導で恣意的な改革が行われることを防ぐ意味からも、独立性の確保は欠かせないのです。

かねてより私は、立法・司法・行政の三権に、教育を加えた「四権分立」の必要性を訴えてきました。

教育は次代の人間を創る遠大な事業であり、時の政治権力によって左右されない自立性が欠かせません。それはまた、戦争への道を後押しした「国家主義の教育」と身を賭して戦ってきた、牧口会長および戸田第二代会長の精神でもありました。

そこで「教育センター」が核となり、国立教育研究所などとも連携を図りながら、確固たる理念と長期的な展望に立った教育改革の方向性を打ち出していくべきと思うのです。

「何のため」という根本目的に立ち返りながら

この重大な使命に加えて、「教育センター」を設立することで、日本は「国際貢献の新しい道」を開くことができましょう。

世界平和の実現の基盤となるのは、国家の利害を超えた教育次元での交流と協力です。私は、この観点から、教育権の独立を世界的規模で実現するための「教育国連」構想を、20年以上前から訴えてきました。

日本が「教育センター」の設立を通し、「教育権の独立」という潮流を世界で高めていく役割を担っていけば、「教育立国」という日本の新たなアイデンティティーを確立することにもつながっていくのではないでしょうか。

本年4月、日本が主催国となって、主要国の教育担当大臣が集い、教育問題を討議する "G 8教育サミット " が初めて行われました。

今後は政府レベルだけでなく、教育現場に携わる人たちの幅広い交流を兼ねた「世界教育者サミット」の定期開催を、日本が積極的に支援していってはどうかと提案したい。

G8教育サミットでも確認されたように、教育に関わる問題は、もはや1国だけの問題に止まるものではありません。だからこそ、日本が国際的な協力推進の軸となって、「21世紀の教育」の新たな地平を開く先頭に立つべきと考えるのです。
続いて、昨今、スポットが当てられている学校教育の改革について、何点か述べておきたい。

近年、打ち出されている改革の柱として週5日制の導入に代表される「ゆとり」の回復を目指す「学校教育の縮小化」と、学区制の見直しや公立の中高一貫校の増設など自由化を進めるための「制度的な規制緩和」があります。

これらは、詰め込み教育の反省や学校間の自由競争を意識してのものと思われますが、十分な受け皿が考慮されないまま改革が先行すると、子どもの自助努力にすべてを任せるような制度になりかねません。

牧口会長は、理念なき自由主義が教育にもたらす影響を、「解放しただけで、建設的の工夫が伴わなければ無軌道の放縦主義に堕することは、無心なる子弟の教育経済の為に座視するに忍びない」と批判しました。この警鐘は、時代を超えて今日においても見過ごすことのできないものと思います。

「ゆとり」に対して、学校や家庭サイドに、あるいは地域社会にどのような備えがあるのか――慎重すぎるくらいの検討を加えないと、取り返しのつかない結果さえ、招きかねません。
牧口会長が「方法上の改良案は教育目的観の確立を先決問題とする」と強調していたように、たえず「何のため」という根本目的に立ち返りながら、改革の具体案を検討していく必要があるといえましょう。

何のための「ゆとり」であり、何のための「自由化」なのかが明確でないままに、改革を推し進めても、かえって悪影響を及ぼしてしまう可能性は大きいのです。

牧口会長はある意味で学校のスリム化につながる「半日学校制度」を提唱していましたが、今叫ばれているような「知育偏重」への批判に立脚したものではありませんでした。

心身のバランスのとれた成長を図るために、「学校での学習」と「社会での実体験」を同時に進展させ、ともに充実させることが望ましいとの考えに基づいていたのです。

その証拠に牧口会長は、「今の教育の病疾は知育偏重ではなくて、正当に知育をなさないのにある」「将来の教育は知育の蔑視や軽減ではなくて、あくまで知育の増進にある。その徹底的改善にあり」と述べ、学校がその課題に真剣に取り組むよう訴えていたのです。

「教育のための社会」へというパラダイムの転換

私は、21世紀の教育を考えるにあたり「社会の ための教育」から「教育のための社会」へというパラダイムの転換が急務ではないかと、訴えておきたいのであります。

「教育のための社会」というパラダイムの着想を、私は、コロンビア大学宗教学部長のロバート・サーマン博士から得ております。

博士とは、私も何度かお会いし、そのつど深い識見に感銘を受けていますが、博士は、アメリカ SGI(創価学会インタ ナショナル)の機関紙のインタビュアーから、社会において教育はいかなる役割を果たすべきかを問われて、こう答えて おります。

「その設問は誤りであり、むしろ『教育における社会の役割』 を問うべきです。なぜなら、教育が、人間生命の目的であると、私は見ているからです」と。

まさに、卓見であるといってよい。こうした発想は"人類最初の教師"の一人である釈尊の教えに依るところが多いと博士は語っていますが、そこには自由な主体である人格は、 他の手段とされてはならず、それ自身が目的であるとしたカ ントの人格哲学にも似た香気が感じられてなりません。

それとは逆に、人間生命の目的そのものであり、人格の完成つまり人間が人間らしくあるための第一義的要因であるはずの教育が、常に何ものかに従属し、何ものかの手段に貶められてきたのが、日本に限らず近代、とくに20世紀だったとはいえないでしょうか。

そこでは、教育とりわけ国家の近代化のための装置として発足した学校教育は、政治や軍事、経済、イデオロギー等の国家目標に従属し、専らそれらに奉仕するための"人づくり"へと、役割を矮小化され続けてきました。

当然のことながら目指されたのは、人格の全人的開花とは似ても似つかぬ、ある種の"鋳型"にはめ込まれた、特定の人間像でありました。

教育の手段視は、人間の手段視へと直結していくのであります。
20世紀が、間断なき戦争と暴力に覆われた、史上空前の大殺戮時代を現出してしまったのは痛恨の極みですが、それは、テクノロジーの負の遺産である殺傷力の肥大化もさることながら、価値基準を人間に置かず、教育という人間の本源的な営みに派生的な役割しか与えてこなかった、近代文明の転換した価値観にも、大きく起因しているように思えてなら ないのであります。

それに関連して、私は、最近の「IT(情報技術)革命」をめぐる動きにも、一抹の危惧を抱いております。たしかに、 九州・沖縄サミットで採択された沖縄憲章に「21世紀を形作る最強の力の一つ」と謳われたように、「IT革命」が、21世紀のメガ・トレンド(巨大な流れ)になっていくことは間違いないし、わが国も、その流れに乗り遅れてはならないでしょう。

それもあってか、たとえば学力低下の問題を取り上げてみても、とくに理数系に顕著な学力低下の現状を放置しておくと、日本の経済や技術力に悪影響を及ぼし、IT 革命に突入しつつある世界の動きに後れをとってしまう――この種の指摘 が、大学関係者を中心に、しばしば寄せられています。
当然の懸念ではあります。グローバリゼーションの是非はさておき、21世紀の国際化の流れは止めようのないもので あり、鎖国時代ならいざ知らず、日本もその流れに身をさらさざるをえないからです。
それと同時に、私の抱く危惧とは、そうした学力向上への取り組みが、旧態依然たる「社会のための教育」という轍を踏んでしまいはしないか、ということであります。

新たな教育観であります。これが受け入れられる時代が、いつ来るのでしょうか?

経済金融界で言えば、日銀など中央銀行は「政府からの独立性」といった特色を持っています。現在ではその独立性こそが中央銀行の存在意義になっています。これと同じように、教育界もまた独立性が重要となる時代を創っていかなくてはなりません。

これは、次世代の重要な目標に掲げるべきテーマとすべきであります。人間を手段としないように、教育を手段視してはなりません。平和も文化も、教育の基盤の上に築かれるのですから…

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