忖度そんたくからみえる日本語文化

最近、国会で「忖度そんたく」という言葉が出てきて少々驚いている。日本語にしかない文化なのだろうか?忖度するとは、(相手の)気持を推し量ること程度にしか考えていなかったが、今般の森友学園事件で「忖度」といった言葉が扱われ、こうまで何回も「忖度」という言葉が出てくると、もともと善意の言葉が、悪意の言葉に変わるような気がしてなりません。

仕事の世界で、ウラを読んだり、行間を読んだりすることは理解できますが、「忖度」といった情緒的な言葉が、公の国会に堂々と出てくると、若干違和感を感じてしまうのです。
忖度の英訳はconjecture、surmise、ドイツ語ではMutmaßungになるのでしょうか?
適切に訳せないので、昨今は”Sontaku”だと言われているようです。ここまで来ると、憶測、憶説、億断などと簡単な訳し方では済まされなくなってきます。

次元は違いますが、仏法用語では「総じて」「別して」といった、ものごとの読み方があります。総じてとは「一般的には」と解釈し、別してとは「別な視点では」とか「個別な解釈をすれば」とでも言ったら良いのでしょうか?実に日本語的です。

更に、「文上」「文底」という理解の仕方があります。字面とは文意が少し違い、文意の意図するところまで、次元が異なるほど深読みすることだと、解釈すれば良いのでしょうか?

さらに仏法用語には、本迹といった概念が有ります。即ち難しいですが「本門」と「迹門」のことを言います。
百六箇抄に「又立つ浪・吹く風・万物に就いて本迹を分け勝劣を弁ず可きなり。」(御書869ページ)とあり、実に本迹をわきまえることは、仏法上では極めて重要なことなのであります。

日本の文化は国際的に通用しない特異なものかもしれません。
ここには論理的に推し量ることができない、本質を察して心で観ることが重要だと思われてきた文化があります。
忖度なども、日本人でないと理解できないものが多くあります。

月に影などあろうはずがないのに「月の影」といいます。
表面的な事柄の中に、本質を見抜く高度な文化が、仏法から由来した日本文化なのかも知れません。

 

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