寅さん流会話は、対話ではないそうだ。日本に会話はあるが対話がないという。
果たして対話とはなんだろう? 対話とは全裸の格闘技であると、哲学者 中島義道氏は言う。
少し長いが氏の論説を引用しましょう。
(「思いやり」という暴力(中島義道著)より)
対話は、その素朴な形態は古代ギリシャ世界一般に浸透していたが、特にプラトンの数々の「対話篇」において絢爛たる花を咲かせた。すなわち、真理を求めるという共通了解をもった個人と個人とが、対等の立場でただ「言葉」という武器だけを用いて戦うこと、これこそが対話なのだ。
これは、全裸で行われた古代ギリシャの格闘技に似ている。プラトンはしばしば、ソクラテスに「きみは自分が裸にならないで、服を着て観戦しているのはズルイ」と言わせている。身分・地位・知識・年齢等々ありとあらゆる「服」を脱ぎ捨て、全裸となって「言葉」という武器だけを手中にして戦うこと、それが正真正銘の対話である。
相手を説得し、または相手に勝とうとする気持ちでは、対話にならないそうです。そこには新しい展開を求めていくという対話の基本原理が絶望的に欠如しています。
最後まで賛成、最後まで反対では、両者の意見の対立を確認しあうだけのことになってしまいます。
対話には基本原理があるそうです。氏は以下のように纏めています。実践の対話を経験した者として、実感をもって読むことができます。(「思いやり」という暴力(中島義道著)より)
- あくまでも1対1の関係であること
- 人間関係が完全に対等であること。対話が言葉以外の事柄(例えば脅迫や身分の差など)によって縛られないこと
- 「右翼」だからとか「犯罪人」だからとか、相手に一定のレッテルを貼る態度をやめること。相手をただの個人として見ること。
- 相手の語ることばの背後ではなく、語る言葉そのものを問題にすること。
- 自分の人生の実感や体験を消去してではなく、むしろそれらを引きずって語り、聞き、判断すること。
- いかなる相手の質問も疑問も禁じてはならないこと。
- いかなる相手に対しても答えようと努力すること。
- 相手との対立を見ないようにする、あるいは避けようとする態度を捨て、むしろ相手との対立を積極的に見つけゆこうとすること。
- 相手と見解が同じか違うかという二分法を避け、相手との些細な違いを大切にし、それを発展させること。
- 社会通念や常識に納まることを避け、常に新しい了解へと向かってゆくこと。
- 自分や相手の意見が途中で変わる可能性に対して、つねに開かれてあること。
- それぞれの対話は独立であり、以前の対話でこんなことを言っていたから私とは同じ意見のはずだ、あるいは違う意見のはずだというような先入観をすてること。
対話とは難しいものだ。とつくづく思いました。
特に5番、個人が自らの人生を消去して語ることではなく、むしろ人生をまるごと背負って語ることなのだと氏は言います。
確かに赤裸々な体験談ほど感動的なものはありません。淡々と静かに語っても、最も雄弁で、説得力があるんです。
日本には「空気を読む」という言葉があります。特に現代日本で猛威をふるっている「思いやり」や「優しさ」に限らず、日本文化の「根っこ」にある 対話 嫌いの元素がこびりついている。
(中略)
…「空気」とはなんだろうか。それは非常に強固で、ほぼ絶対的な支配力を持つ「判断の基準」であり、それに抵抗する者を異端として、「抗空気罪」で社会的に葬るほどの力をもつ超能力であることは明らかである。 (「空気」の研究 文春文庫 より)
そしてわれわれは考えなくなってしまった。考えなくてもいいからなのである。われわれは自分の言葉を失ってしまった。言葉を発しなくてもいいからである。
(中略)
自分も見えななくなっている。自分が何を考えているのか、何を求めているのか、何をしたいのか、何を感じているのか、さっぱりわからなくなっている。自分と「みんな」との区別がつかない生き方をえいえいと続け、それに疑問も覚えない。
(以上 「思いやり」という暴力 より)
哲学者の言うことは難しい。解るようで解らない言い方をする。平らに言えば、日本の文化には 対話 が育ちにくいということだそうだ。「抗空気罪」となっても自分で考えないと、また戦争を肯定してしまいます。「空気を読むな、空気に支配されるな」ということです。
寅さんは会話の名人です。人情や、情緒を操る。会話には中身がなくても良いのです。人を気遣い、人に好意を抱き、心配する気持ちが伝われば、内容はどうでも良いのです。ところがこれでは対話は生まれません。寅さん的会話が大好きな日本人は、会話の名人に惚れて、対決的な対話には不得手です。日本的な会話は、理屈より情緒が先なのです。情緒で終わってしまいます。
ドイツ語にdiskutieren (説き聞かせる、論じる、議論する、論う)という言葉がある。対話をドイツ語に直訳すれば、Dialog又はGespräche ですが、議論好きのドイツでは diskutierenは日常的なようです。同じ論理でも「日本人の論理は情緒から出発し、ドイツ人の論理には襞がない」と言われます。
対話は、自然に出来るものではありません。相手が対話を望んでいなければ、まず対話にはなりません。
そして、何らかを求める気持ちがないと対話になりません。
創価学会には、対話が息づいています。学会員は「仏法対話ができた」と皆に言えば、「素晴らしい」と皆が褒め称えます。誠に珍しい文化が産まれ始めました。
池田先生の著書は対話シリーズが実に多い。「青春対話」「未来対話」「平和への対話」「21世紀への対話」「哲学ルネサンスの対話」などなど、対話と題名がついていなくても、殆ど対話が基本です。
誠意をもって、相手を思いやる気持ち、同苦する人間性を持った対話です。座談会で自分自身の信仰体験を話したり、人の体験を聞いて感動したり、御書そのものが対話なのです。学会員はごく自然に 対話 をしています。
貧富、地位、学歴、男女、年齢も平等で遠慮がありません。(プラトン流に言えば、服を脱ぎ捨てています)
それも、確信を持って堂々と主張します。そして思いやりを持って丁寧に話します。学会員は知らず知らずのうちに、対話の名人になっています。これは日本の文化史上革命的なことです。