満州侵略戦争の罪責

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戦争を被害者の立場から書いた記録は多い。しかし戦争を加害者の立場から書いたものは少ない。
中国・満州での日本軍の戦争は明らかに侵略戦争だった。その侵略戦争の本当の真実は、意外にも知られていない。戦後世代の我々にとって、これは衝撃的な真実だった。

戦争と罪責という本を読んだ。この本は満州で日本軍として従軍したものの体験を、野田正彰が面接調査した記録です。

満州で日本軍は何をしたのか?著者の野田正彰は、戦後50年経て、一人ひとりに丁寧に面接調査をした。満州での真実、戦犯としての罪責を問いただされた人、一人ひとりに聴いています。

(生体解剖の実習)ベッドの上のふたりの中国人は、息も絶え絶えだが、まだ呼吸をしていた。このまま解剖室の裏に掘ってある穴に放り込むのは気が引けた。(湯浅謙 軍医)

(度胸試しとして)中国農民7名の斬首刑に立ち会ったとき、首を切り損じた一人が穴に転落し、血だらけの頭で「日本鬼子リーベン クイーズ」と叫んだ。(小川武満)

村落を襲い、奪い、焼き、殺し尽くした。初年兵を鍛えるため、中国農民を木に縛り付け、銃剣で刺す訓練もさせた。
「ウサギ狩り」と呼んでいた中国人強制連行作戦も行った。(小島隆男)

日本軍は中国農民を捕まえて突き刺す初年兵教育を行いました(度胸試し)。刃は元までブスッと入ります。一回目はいいです。二回目の兵隊も突きます。次の三回目ぐらいになりますと血が手について、血だらけになるのです。(小島隆男)

強姦は犯罪とされていた。そのため兵士たちは強姦の後で、女を殺したのである。(中略) 私は娘を裸にして強姦し、その後包丁で刺殺し、手早く肉を全部切り取った。それを動物の肉のように見せかけて盛り上げ、指揮班を通じて全員に配給したのである。(新井正代)

日本軍隊という一つのシステムが、いかに単純な青年を殺人遂行の部品に変えていったか、(中略) 所属団体への適応、適応しながらのエリートとしての地位の維持=つまり日本型上昇の意識=が、彼に残酷を感じない殺人ロボットへ変えていった。

戦後世代は、親の本当の姿を知っているのだろうか?太陽に当たった夜空の月の半面を月とみているだけで、影の半面を知らないのではないか?戦争にかかわった父母は、多くの場合すでにいない。
我が亡き父も満州に行っていた。だが戦争の詳しい話を聴いたことがない。ただ折れ曲がった右人差し指は、満州での怪我だと言っていた。その怪我によって内地に戻され南方戦線送りを逃れたと言っていた。

日中戦争は侵略戦争そのものでしかありません。野田正彰は問うています。満州でも、上海でも、南京でも日本軍は平然と無辜むこの中国農民を殺戮していきました。事実の羅列では済まない過ちです。
陸軍指揮下ではなく、個人の過ちとして問われただされなくてはならないのです。

日本は序列社会です。特に従属意識が強く、集団に埋没する日本人は集団の中では、平然と略奪、強姦、拷問、虐殺を犯して来ました。こんな侵略戦争が日本の近代史として満州にあるのです。
かつて何回も瀋陽へ出張したことがあります。この本を読んでたら、とても瀋陽(満州での奉天)には行けなかったと思います。

この侵略戦争は、日本の近代史の恥部です。だから正確に記録に残しておかなくてはなりません。反戦とか反核を謳った戦後団塊の世代として、侵略戦争の真実に沈黙してはなりません。唖然とするような地獄、目を疑うような畜生、修羅の凄まじさに目を閉じてはいけません。
中国農民を虐待し、牛馬のように殺した。こうした満州の侵略戦争が有ったことに目をつぶってはならないのです。

シベリア抑留から中国へ引き渡されたBC級戦犯は、今度は殺されると思ったと言います。中国では恨みを買って死刑にされても仕方ないと思っていたそうです。

周恩来は撫順戦犯管理所の方針として「日本戦犯の処理については、また一人の無期徒刑者も出してはならない。有期徒刑者もできるだけ少数にすべきである。起訴状は基本罪行をはっきり書かなければならない。罪行が確実でないと起訴できない。普通の罪の者は不起訴とする。これは中央の決定である」と指示したといいます。
この指示に対し、東北検察団の責任者は再度組織の考えを説明しに上京したとき、
周恩来は「部下が受け入れないのではなく、君たちが受け入れないのだろう。君たちが納得すれば、部下はおのずから受け入れるようになるだろう。日本戦犯に対する寛大な処置は、20年後に、君たちの中央の決定の正しさを理解するようになるだろう」と応えたといいます。

周恩来は日中国交正常化に当たって、日本に対する戦時賠償請求を放棄しました。過去を追求しないと決めてくれました。
なんと卓越した偉大な政治家がいたことか、周恩来の思想が今も中国には息づいているように思います。

中国へ引き渡された戦犯は、撫順戦犯管理所で過ごすなかで、坦白たんぱい(戦時の非人道的行為の告白)と認罪を求められ、そこで初めて自らの犯罪告白を行っています。もう上官に従っただけだとの抗弁はありませんでした。それほど長い時間をかけ、自分の罪責を認めています。戦争中の犯罪を個人としてどう受け止めればいいのか、深いところでの反省が求められたのです。

戦争で死んだ日本兵への慰霊碑は多い。しかし、中国・満州を侵略した罪責での慰霊碑、謝罪の慰霊碑は有りません。
独・ヴァイツゼッカーRichard von Weizsäcker氏が訴えたように「過去を変えたり、起こらなかったことにする訳にはいかない、われわれ全員が過去を引き受けなければならない」のです。

我が信頼する池田先生が書き残した『人間革命』の主題は、冒頭の一節にあります。
「戦争ほど残酷なものはない。戦争ほど悲惨なものはない。」と 今又これを想起し、わが日本の侵略戦争に深い反省を込めて、不戦を再び誓い、日中友好を心から誓わなくてはなりません。