蝦夷が北海道となったのは明治に入ってのことだが、蝦夷県でも北海県でもなく、北海”道”と命名されたには訳があるように思います。自説ながら県より道は広大で、行政上重要だと思ってる。
幕末は尊王攘夷の只中にあって、禁門の変を呼び、長州征伐に及び、日本は明日をも知れぬ混乱期にありました。
その頃、坂本竜馬は勝麟太郎に相談して蝦夷開発のため軍艦を都合してもらおうとしていた。龍馬も夢見た蝦夷地開発。
しかし当時の幕府にそんな余裕はなく、家茂が上洛するのしないの、それも陸行か海路かなどと揉てる最中。
そんなことを他所に将来の日本を見つめ竜馬はとんでもない発想をしていたのです。もし竜馬が生きて軍艦を操って、北海道に渡っていたらどんな事になっていたか?なんか想像するだけで楽しい。
幕末期は、命さえ顧みないで、赤誠を誓って潔く生死をかけた人々が大勢いました。天下を憂い、義を尊び、理想に燃えた若き志士です。しかし、そのほとんど命短くこの世を去りました。
榎本武揚も北海道開拓に夢を見ました。ご存知の通り徳川時代の終焉、即ち戊辰戦争の終結は榎本を総裁とする箱館戦争でした。
いよいよ、江戸開城のとき勝麟太郎は西郷吉之助に「軍艦だけはどうにも思うようにならぬ」(榎本釜治郎)が言うことを聞かないと言った。
実際の実務を扱っていた榎本釜次郎(武揚)は江戸開城を承知しなかった。
勝の説得にも関わらず、榎本は主艦開陽丸以下八隻を率いて脱走。北海道に渡って箱館戦争に至るのです。新天地、北海道に事実上の新政権を作ろうとした。その「蝦夷共和国」の構想も敗北とともに八ヶ月で頓挫してしまった。
榎本武揚という男は勝麟太郎と同じ江戸の貧乏旗本でシャキシャキの江戸っ子。勝より13才年下で、勝の長崎海軍伝習所に学んだあと、幕府の開陽丸の発注に伴ってオランダへ渡航(1861~1867)した。その榎本が最新鋭の主力艦である開陽丸を率いて北海道へ脱走したのです。そして翌年、最後の戊辰戦争となる箱館戦争に及んだのです。
この戦争終結に自刃覚悟の決意のなか、大鳥圭介(陸軍奉行)の一言で投降が決まり、榎本武揚(総裁)以下は官軍に投降するのです。
官軍参謀だった黒田清隆は榎本を「これだけの人物、刑に処するは何とも惜しい」と、大久保利通、西郷隆盛に懇願し、榎本を赦免させ、官途に就かせて自分の輩下にしてしまった。
榎本武揚については函館戦争(明治5年)敗退を境に、幕末の榎本と明治の榎本が異なります。これを変節とか裏切りとかいう者はいたが、勝に宛てた榎本の手紙に有名な一節があった。
褒貶は人にあり、行蔵はわれに在り
毀誉褒貶は人が決めること、出処進退は自分が決める。…と云っています。福沢諭吉はこれを「痩せ我慢の説」と評したらしい。確かに「尻を捲った感」否めない。彼の行動はいささか顰蹙を買う場面も少なく無かった。だが自の行動に自負を持っていた。
その後、榎本は樺太千島交換条約の交渉のため、ロシアへ特命全権大使として渡ります。幕末から明治初期、世界から見れば日本ほど小さな国はなかった。隣国ロシア帝国の南下政策と侵略に脅威を感じ、怯えていたのは事実でありましょう。
西郷隆盛の征韓論も、その真意は韓国の先のロシアの脅威に対して唱えられたものだったし、榎本の樺太千島交換条約(明治8年)も大ロシア帝国の侵略に脅威を感じたための交渉でもありました。
後年、日露戦争(明治37~38年)で日本が旅順203高地を落とし、バルチック艦隊を破り、ポーツマス条約(明治38年)で領地が確定されるまで、ロシア帝国は日本にとって脅威そのものであった。
今のウクライナで起きていることが、この北海道を舞台に起きるのではないか?と切迫した脅威が、幕末から明治初期の日本に在ったのであります。
榎本に話を戻します。ロシアに接する日本、殊に北海道の樺太千島の領有問題に初めて手をつけ、交渉に挑んだのが榎本だった。
明治初期、未発達な国家であった日本は「国家とは何か」と手探り状態だった。廃藩置県と廃刀令で武士は身分もその職も取り上げられてしまった。ただの平民となってしまった。
そして日本国家に立ちはだかった最初の問題が領土問題であった。樺太千島を含む北海道を舞台に、ロシアからの脅威だった。
蝦夷から北海道へ新しい時代へ向けて新出発したとする向きもあろうが、実は「国家とは何か」模索しながら歩んだ問題のなかに他国の脅威があった。その先鋒こそが北海道であったのです。
蛇足ながら、私の出身校である東京農業大学は榎本武揚を”建学の祖”としています。後の理由付けとしか思えないが、榎本が「育英黌農業科(現在の東京農業大学)」を創設したことによるらしい。彼に教育熱が在ったとは思えないが「褒貶は人にあり」ということにしておこう。