未曾暫廃みぞうざんぱい」の心意気で

未曾暫廃みぞうざんぱい」とは、「未だかつしばらくもはいせず」と読みます。
年をとったからこそ、「いまだこりず候」でありたい。「未曾暫廃」の心意気こそ、晩年の賛歌であります。


経文では 、その仏の行いは「未曾暫廃」― 瞬時もたゆむことはない 、と述べている。仏には、休みがない。
一般に仏教というと「瞑想する仏 」「座す仏」という静的なイメ ージがあるが 、実際の釈尊は違う。
“歩く釈尊” ”行動する釈尊”のダイナミックな姿こそ、真実の釈尊である。
仏とは間断なき闘争者の異名です。仏は行動し続ける。民衆の幸福を築くために。あらゆる権威から民衆を解放し自由にするために。その姿こそが「未曾暫廃」なのです。
「日蓮一度もしりぞく心なし」 (辧殿尼御前御書1224㌻)、「今に至るまで軍やむ事なし」(如説修行抄 502㌻)と、悠然と立ち向かわれた。
汲々とではなく、悠々と戦いましょう。
私たちにとっての「未曾暫廃」とは何か。
それは、つねに勇気凜々と戦うことです。いかなる波浪や逆風にも、”戦う心”で立ち向かうことが、この経文に通じていく。その心が、わが生命を健康へ、長寿へと向かわせていくのです。(法華経 方便品・寿量品 講義(下)より)

そして、『新・人間革命』にも以下のようにありました。

大事なことは、最初の決意を忘れることなく、一日一日が前進であった。勝利であっという、悔いなき力強い歴史を、我が身に綴っていくことです。

新・人革11巻暁光の章. p31 リオデジャネイロ(Rio de Janeiro)の コルコバード(Corcovado)の丘で

つまり、”今日、何をするのか”  ”今、何をするのか”を、常に問い続け、必死になって、挑戦し、行動し抜いていくことです。
これが、法華経寿量品で説く『毎自作是念まいじさぜねん』(常に自ら是の念をさく)ということです。また少し難しくなるが『未曾暫廃みぞうざんぱい』(未だかつしばらくもはいせず)ということでもある。

すなわち、広布のための連続闘争こそ、仏の所作を実践している尊い姿であり、絶対的幸福への軌道なのです。
(第11巻 暁光 P32 より)

未曾暫廃みぞうざんぱい」は「人生の総仕上げ」の為にある箴言です。
思春期「なんのために生きるのか」といったことに悩みました。壮年期は「屹立たる自己の確立」を課題としました。そして今、老後になると「何をよりどころに生きてゆくか」が重要です。
その結論は、がために生きることをめない」ことだと思うのです。誰かのため、何かのため、他者のために生きることを、止めないことです。

「よりどころの無い人生」は、実に虚しいものです。人生の信条・信念に触れる根本的課題は、宗教以外にはないのです。
いま日本には「無宗教」という宗教が蔓延はびこっています。無宗教に取り憑かれると、人生の意味を見失ってしまいます。また、間違った宗教に囚われると、人生は破滅します。

そのなかで、燦然と輝くのが「創価」です。本来、宗教は生きいきとした人生を支える羅針盤です。生活の中に根ざした仏法こそが創価です。正しき真の仏法を、今に蘇らせたのは創価です。

宿命を使命に変え、絶望を希望に変え、悲観を楽観に変える。それが仏法、即ち創価なのです。
創価の精神は、他者への関わり方にあります。「他者の不幸の上に、自分の幸福を築かない」、「自分のために人を利用しない」そして更に「他者への貢献の中に、自身の人生の価値を見出す」これが創価の精神は、貢献的人生なのです。

<<八風>>
利(うるおい)
衰(おとろえ)
毀(やぶれ)
誉(ほまれ)
称(たたえ)
譏(そしり)
苦(くるしみ)
楽(たのしみ)

八風に流されがちな世の中にあって、金や名誉、自己に執着する人生に堕ちることが多いのです。

人を手段としない、どんな人にも仏性があると信じることが、創価の精神です。これに疑念を持たず、不退転で来たことに感謝しています。
自分自身の信念を築き、そして人生の終盤を迎え「未曾暫廃みぞうざんぱい」の心意気で、信念を曲げず、信心を深くできたことに、感謝しています。

最期まで創価の精神で、創価の同志と闘い抜くことは、最高に幸福なことです。
”人間としての生き方”を常に問いかけながら、他者への敬意と自身の振舞いに注意しながら「いまだこりず候」でありたい。

未曾暫廃みぞうざんぱい」の心意気こそ、晩年の賛歌であります。