サラリーマン定年後の悲劇「終わった人」

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定年退職して2年後、2011年頃だったか、中央公論(2010年12月号)に掲載された渡辺淳一インタビュー「サラリーマン定年後の悲劇」が非常に面白かったので、著書「孤舟」を読みました。
そして昨年(2015.9)出版された小説「終わった人」を一気読み。このテーマは今以って面白いテーマです。

渡辺淳一は「失楽園」で有名ですが、「孤舟」は彼が70代後半の作品です。もう枯れている。
内館牧子も「終わった人」を68才で上梓しています。相応の年齢でないと書けないテーマで、現役の人には気が付きもしない問題です。ましてリアリティーをもって共感できることはないでしょう。

戦後”サラリーマン”という職種が生まれ、その団塊の世代が定年退職を迎えました。少子高齢化の裏側に潜む社会問題なのです。

サラリーマン男性にとって、定年は会社卒業以上の「生前葬」に近い大きな節目です。
これまでの人生の節目には、卒業の次には出発があったのですが、男の定年退職には、次の出発が予約されていません。
何をしても自由だが、何もしなくても自由。一様に戸惑うことになるのです。なかなか準備して準備できないのがこの「生前葬」です。それが平均的なサラリーマンの退職なのです。

内館牧子
内館牧子

内館牧子は女性ですから、女性の視点からも男の定年後の問題を観ています。
サラリーマン定年後の悲劇は、妻にとっても他人事ではないのです。
群れることができない生き物である男が孤独であること、その社会的な問題は、男達の問題にとどまりません。

主人公 壮介は、倒産で9000万の借金を背負うことになり、妻とは「卒婚」となり、一切を失って、サケが北上川を遡るように、ひとり故郷盛岡に帰ります。高校時代の”横一列”な人間関係に、納まろうとするところで小説は終わります。

実は、これから先に本物の人生が見えてくるように思うのです。
肩書も地位もカネも無くならないと見えてこないパラドックス、人生の真価は「終わった人」のその先にあるのでしょうか。