老後は自分で決める

オフクロの入院をみてから「明日は我が身だ」と思うようになりました。まだ先のことですが自分自身のこととして「老後は自分で決める」べきだと、つくづく思うようになりました。

最晩年、終末期、最期といわれるときを、あたかも枯れるように穏やかに幕を引きたいと思います。そのためにも「老後は自分で決める」ほうが自ら納得できるように思うのですが如何でしょう

老後は単調ではありません。60才頃は「年輩」で通ります。70才頃から体力が無くなり、老化も進みます。75才頃から病の一つや二つ抱え「老人」になります。その後老化は加速し「最晩年」に至ります。このように老後は単調ではありません。体力も確実に衰えてゆきます。

65歳を過ぎても社会第一線で働くとなれば、よほど能力があるかプライドを捨てなければ出来ない相談です。此れが男の老後です。

男の料理教室」の隠れた意図もそこにあります。三度の食事とペットの世話ができれば立派な「留守番男」になれます。
これができれば、家の中で邪魔扱いされません。更に、掃除・洗濯・家事全般が出来るようになれば、もし妻に先立たれても一人暮らしは可能です。

認知症への予防薬は「一人暮らし」だそうです。これが出来る人は、認知症が殆どいないのだそうです。
長生きをする限り、認知症は避けて通れない道だと覚悟を決め、運良くならなければ儲けものといった処で納得するのも可です。

認知症の始まりは暴言・暴力です。でもこれは、認知症の副次的な症状で、この初期対応のまずさから認知症を悪化させるそうです。朝食べたのに「朝から何も食べさせてもらってない」と言うのは当人の意識では、本当に食事していないと思ってるのです。だったら簡単な食事を準備すれば、暴言・暴力にはなりません。

さて、親の面倒をみる動物はいません。食べるために生きている動物は子孫を残すことが目的ですから、子供が巣立てば、親は用済となり、何時亡くなっても構わないわけです。
ところが人間は違います。動物と同じように子孫を残すことだけが生きる目的ではありません。人はその尊厳の故に生きてます。人間には人権があり、生の尊厳が認められ、尊重されています。人間の権利として、生命の尊厳が守られなくてはなりません。

家族が、親の老後の心配をしてくれます。家に引き取るか?施設に入れるか?でも当の本人はなかなか決心が付かないのです。

年をとると例外なく「環境が変わるのは不安だ」「最期は自分の家がいい」と答える筈です。本当にそうでしょうか?
もし、施設のほうがいいと答える人がいたら、それはよほどの事情通か、変人です。
株式相場で株を買うのは易しく、損切りで売るのは難しいようなものです。長生きすると捨てることが増々できなくなります。

 60歳からは「小さくする」暮らし』だと言われます。リカレント教育、LIFE SHIFTの著者リンダ・グラットンLynda Gratton複線型人生(Multi Stage Life)の一つエクスプローラー(Explorer)ではありませんが、思い切った人生の選択こそが、最晩年の人生を豊かに変える方法かも知れません。

「我が親を預けてボランティア」という川柳があるそうです。まさに介護の真髄を言い当てています。
他人だから受け入れられる介護があります。しもの世話をしてもらったり、裸になってお風呂に入れてもらったりすることは、誰しも抵抗感があります。ところが赤の他人だとかえって気兼ねなく恥ずかしさも少なくなるから不思議なものなのです。

介護が社会化する時代にあって、老人ホームについて見直されてきました。介護する側にとっても、介護される側にとっても、双方にしあわせなことが多いといわれています。

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真剣に自分の老後を決めるため、老人ホームやサ高住を調べたり、実際に訪問して自分の目で確かめる努力が必要です。
ノホホンとして、ボーっとしてたら、老後はすぐにやって来ますヨ。

「カネと痛みは患者持ち」と言われる医療現場は、Cure(治療)することを使命とし、Care(看護・介護)には無関心になりがちです。今では在宅ケアへの道もある時代なのですが、それでも医療は患者側にとって苦痛や不安に満ちたものになりがちです。殆どの医療は、患者の延命措置しか考えてくれませんから。

あたかも枯れるように穏やかに幕を引きたいと思うなら、静かに終末期を迎えたいなら、今のうちに施設を調べたり見学したりしないといけません。
介護保険制度が生まれてまだ間もなく、雨後の筍のように施設が出来ましたが、その内容は千差万別だと言われます。
悪いニュースに翻弄されることなく、施設の良否を見極めておくことは大切です。自分自身の老後のために準備が必要なことは、誰が見ても当たり前な時代を迎えています。


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