出生とか入滅と言うように、命は出てきて入っていくものです。命という泉があって、渓流を下り、やがて大河となり、大海へと入っていくようなものです。仏法の専門用語ですが「是法性の起是法性の滅」と命は説明されています。
命には限りがあります。そのことを受け入れるには少し時間がかかります。それは当人も周囲で看取る者にも言えることです。
小説「いのちの停車場」の中にこんな一節がありました。
車椅子の仙川が、ホワイトボードの前に進み出た。フェルトペンを手に疾患別の死亡曲線を示し、時間の経過と進行を四つのパターンに分けて説明する。
一般的な老衰は、虚弱の状態を経て非常にゆっくりと死が進行していく。
重度の脳梗塞や脳出血など、発症の直後から数時間に死亡するのが二つ目のパターン。
三つ目に心不全のように急変と回復を繰り返しながらも徐々に状態が悪化し、最後の急変で命を落とすというパターンの疾患もある。
四つ目のパターンとして、癌がある。末期のステージ4と診断されても元気な状態が比較的長く続いて、ある時を境に週の単位で状態が悪くなるケースが多い。(いのちの停車場 p.226)
人の生まれ方は一様ですが、亡くなり方は人それぞれなのです。
「いのちの停車場」は在宅での終末期医療のエピソード集です。
自分も今オフクロを在宅で介護していて、身につまされるような思いでこの小説を読みました。
小児癌に侵され、死期を間近に控えた六歳の女児(萌)とその両親のエピソードにも心打たれました。萌の願いを叶え千里浜へ連れて行ったときの親子の会話に、思わず涙腺がゆるんでしまった。
「パパ、ママ。萌ね……」波に足を洗われながら、萌が改まった調子で言う。
「うん?」
「萌ね、癌になっちゃってごめんね」両親は顔をゆがめた。
(いのちの停車場 p.322)
六歳の娘でさえ、介護する両親へこのような思いをもっていたのです。介護される側の気持ちは如何ばかりか?そこに寄り添ってあげることが、介護する者のあるべき姿勢なのでしょう。
主人公 咲和子の父は、骨折から誤嚥による肺炎、更には脳卒中のあと神経性疼痛「異痛症」に襲われる。軽く触れただけでも激痛が走るようになり、壮絶な終末期を迎えることになります。
自然死か安楽死かという問題にも小説では踏み込んでいきます。
家族が延命治療を希望し、一方で患者本人がそれを望まない場合もあります。どちらの気持ちも無視するわけにはいきません。終末期の状況は刻々と変わって行きます、心も揺れ動くものです。
命を救うという治癒をめざす医療から、人生の終末期を迎えるとき、延命ではない医療の在り方を問う時代になってきました。
いのちとどう向き合うか、医療を超えたところに解決策があるのではないかと思います。それは、信ずるかどうかといった領域の役割です。みずみずしい命となって再び生れると信じられるか?
命と申すものは一身の珍宝なり、一日もこれを延ぶれば千万両の金にも過ぎたり
臨終を前にしてもなお「命と申すものは…」と斯く信じていたい。