但偏ただひとえに思い切るべし

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先日(2018.1.20)の名字の言(聖教新聞コラム)に感動した。

 自動車学校の教官から聞いた話がある。入校者の中には、乗り物酔いをするという人もいる。ところが、そんな人でも、ハンドルを握らせると酔わない▼「車に乗せられているという受け身ではなく、自分がやるしかないという緊張感、責任感によるものでしょう」と。これは万般に通じる心理だろう▼今年の元日、晴れて100歳を迎えた壮年が福岡市博多区にいる。昭和32年に入会。翌年の「3・16」記念式典に参加し、広布に生き抜く人生を誓った。以来60年、多額の負債、大病、妻との死別など、試練に直面するたびに、先駆して学会活動に励み、乗り越えてきた▼「信心はすごかね。勇んで挑戦すると、悩みや苦しみが、すべて“宝”に変わるとよ」。“宝”と言えるまでには、大変な苦労と祈りがあったと思う。だが100歳になった今なお、喜びと感謝に満ちて対話に励む姿は、人生勝利の輝きを放っていた▼但偏ただひとえに思い切るべし」(御書1451ページ)。幸せになるための信仰である。受け身ではなく、どこまでも主体的に、積極的に挑みゆくことだ。特に困難な時こそ、強盛に信力を奮い起こそう。その時、どれほど「心の宝」が積めることか。“希望の鑑”となって教えてくれる素晴らしい先輩が、たくさんいる。(誠)

引用された御書は、弥三郎殿御返事(p1451)で、この部分です。

構へて構へて所領を惜み妻子を顧りみ又人を憑みて・あやぶむ事無かれ但偏ただひとえに思い切るべし、今年の世間を鏡とせよ若干の人の死ぬるに今まで生きて有りつるは此の事にあはん為なりけり

人生とは何か!人生はこうあるべきだ!と、心がさぶられる。「但偏ただひとえに思い切るべし」生涯このくだりを忘れないようにしよう。
もし100才まで生きても、このくだりを忘れないようにしよう。

今年(2018年1月7日)、池田先生から詩を贈られた。その題名は、
「青年と共に偉大な人生を」とあった。(日永さんのアドバイス感謝)

大いなる理想に生きる ――
そこに青年の証しがある。
そして偉大なる人生とは
“青年の心”で
一生を生き抜くところにある。

若き挑戦の魂に
行き詰まりはない。
全ては“行動”から始まる。
行動を開始すれば、知恵がわく。
「道」が見えてくる。
道があるから歩くのではない。
歩くから道ができるのである。

若いということは、それだけで、いかなる権力者もかなわない
「無限の財宝」をもっている。
くよくよと後ろを振り向く必要など、まったくない。
まず今いる、その場所で、自分らしく光っていくことだ。
信頼を勝ち取っていくことだ。

あの大歴史家トインビー博士の「若さ」の秘訣は明快であった。
「次の世代に起ころうとしていることに、ほんとうに関心をもつこと」である。
人生の総仕上げとは、過去の肩書など取り払って、未来のため、青年のために、心を砕き、知恵を出し、手を打つことなのだ。

私は青年を信ずる。
一点の曇りもなく、わが弟子を信じている。
青年には、限りない宝がある。
それは誠実だ。正義だ。勇気だ。
青春には、誇り高き使命がある。
それは行動だ。前進だ。勝利だ。
君たちよ! あなたたちよ!青春の生命の本領を
大いに発揮し、私と共に、新時代を断固として
勝ち飾ろうではないか!

ジェット機が雲を突き抜け、大空へ上昇していくと、眼下に白雪のアルプス山脈が広がっていた。1994年(平成6年)5月、ドイツからイタリアに向かう機中、池田大作先生がシャッターを切った。

人生は、決して平たんな道ばかりではない。仕事の問題や病気、家庭不和など、次々と試練の山が立ちはだかる。そうした山々に挑むからこそ、自身の秘められた力を引き出せる。

スイスの思想家・ヒルティは叫んだ。「さあ、前進だ、断固として『より高きをめざせ』」(草間平作・大和邦太郎訳『幸福論(第三部)』岩波書店)
さあ、新しき勝利の峰へ出発しよう。青年と共に、青年の心で――。

 

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