言語には二面性があると言われます。一つは伝達する道具として
もう一つは、思考する道具としてです。
思考するには、どうしても言語が必要なのです。ぼくらは日本語で思考します。英語やフランス語のような思考ではありません。

そこに日本語の奥底に日本文化がある理由があります。まず日本語の特徴は話し言葉ではないという点です。
フランス語は17世紀ランブイエ公爵夫人のサロンで、洗練され統一されました。ドイツ語はルター聖書の普及とともに言語が統一され、英語も聖書とシェークスピアに言語の権威があって統一されたといいます。
何らかの権威によって言語は統一されてきたのですが、日本語の生い立ちは権威ではなく、権力によって作られました。
明治維新という激動期に、伝達用の言語が必要になって、権威でなく権力によって、「国語」が統一されたのです。
権力によるから、日本語の出自は書き言葉になったのです。
西欧の多くの大学は、宗教や学芸の権威から創られてきましたが、日本では官の権力によって、まず東京大学が創られました。よって日本語は官製だったのです。急いで西欧列強に肩を並べるために、官製日本語が出来上がったのです。
幕末、各藩で使われた、話し言葉は情緒豊かな表現力を持っていました。しかし官製日本語すなわち標準語は、書き言葉から発生したため豊かな情感を伝えるものとはならなかったのです。
日本の初等教育は寺子屋によって読み書き算盤が教えられ、庶民に普及されました。17世紀の日本は、世界的にみて驚くような高い識字率を誇りました。ところが、この寺子屋から権威は生まれませんでした。
また藩校で教えた共通語は、不幸にして書き言葉しか無かったのです。こうして日本語は、明治維新で伝達を目的とした標準語を書き言葉から生むに至りました。
官製日本語=標準語は、伝達を目的に作られましたから、思考のための日本語ではありませんでした。
そして苦労して「~候」の書き言葉から平明な「です」「ます」調の口語を作ったのです。思考のための日本語を大慌てで作ってきたと言えます。
丸谷才一と山崎正和の対談「日本語の21世紀のために (文春新書) 」は、小説家と劇作家が語る「国語」に関するウンチクです。
表題の「21世紀のため」と云うほどのモノではありませんが、面白い。
やはり日本語は世界的に見て特徴的なものだったのです。
2020年8月19日山崎正和が亡くなった。86歳だった。良識ある知識人として、まだ活躍して欲しかった。残念だ。合掌。