次世代のデモクラシーdemocracy

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まず、Democracyを民主主義と訳す変な日本。デモクラシーdemocracyという言葉は、ギリシア語のディモクラティdemokratiから出ているそうでディモスdemosはピープル、クラティアKratiaはガバメントなんで、政治制度ということになります。
日本ではこのデモクラシーを民主主義と訳しているが、主義は本来イズムismでなければならない。
デモクライズム又はデモクラティズムならば、民主主義となるけど、デモクラシーは民主政治、民主制、民主政治制度と訳すべきです。
この制度とすべきものを主義と誤訳してしまったところに戦後日本のデモクラシーの大きな落とし穴があります。(「国会は無駄づかい」P101より)
Democracy → demos + kratia
demos = people
kratia = sway,institution(governing)

okano_kaoru

政治学者で、明治大学学長だった岡野加穂留おかの かおる (1929/6/22 ~ 2006/6/7) 氏の平和社会のための政治学メモより感心した処だけ、つまみ食いをすると…

日本人が、戦後の日本人が、民主主義!民主主義!とお題目のごとくに唱えているモノの中味は、日本だけに通用する一種の”風土理念”であって、いわゆるデモクラシーの先進諸国で使われているものの中味とはまったく異なっている。(「政治風土論」P31より)

日本においては、デモクラシーという政治制度を支える精神的支柱がないから、制度であるべきものを主義と誤訳して今日までのほほんとしている。(「国会は無駄づかい」P102-4より)

のほほんとしてきた日本”とは痛烈である。確かに、日本の明治維新は武士の権力闘争であって、これによって一挙に西洋思想や文化を移入したもの。明治維新は革命でも何でもありません。
ところがパリ革命こそ、革命といえる唯一の革命です。ヨーロッパでは、何十年亘って思想史が繰り広げられ、そこに人間普遍の原理が確立して来ました。それがパリ革命となって生まれた自由,平等,博愛あります。この人間普遍の原理によって、アメリカの奴隷解放へとつながっていきました。
そういったパリ革命という文化的歴史遺産を、日本は全く経験していないのであります。

ハードウェアから情報指向へと産業が変質し、資本集約的な規模の経済から共同体形式の地域的生産というパターンに移っていくにしたがい、そしてまた消費者的な価値観から、もっと思索的な価値観への目覚めが高まるにしたがって、産業はもっとよく自然のエコロジーに適応できるようになるはずだ。
また、脱工業化経済の著しい特徴といえば研究開発と教育の重視で、この新しい社会の性格は、思索的な教育指向のコミュニティである。

ハード・パワーからソフト・パワーへ、我々は激動の時代を生きている。恐らくこの21世紀は、思索的な価値観、教育指向へと社会(コミュニティ)が変わっていく時代です。まさにその時代を我々は生きています。
即ち教育指向とは、社会のための教育から、教育のための社会へと価値観が変わっていく時代です。
教育はより良き社会、より高度化する社会のための手段ではありません。教育は、それ自体が目的であり、目的価値です。
教育が目的の社会(コミュニティ)であることが求め始められました。否、そうした社会を創り築いていかなくてはなりません。

そのとるべき手段は、非暴力主義・暴力不服従主義・暴力否定主義を徹底させ、人道主義と平和主義の観点から生じるHumanitarian Accessの方法と手段による解決策を基本とした政治的リーダーシップの確立である。基本はあくまでも、ディスカッションを手段として「友情ある説得」(Frendly Persuation)を辛抱強く展開して、より民主的な議会の立案決定過程に、地方自治を基礎に「草の根の民主政治」(Grassroots Democracy)であることは言うまでもない。

キーワードは、Humanitarian Access である。デモクラシーの基本は非暴力であり、人道主義です。この洞察は実に優れていると思います。
対話からすべてが始まります。対話とは友情ある説得であります。また、政党は地方自治(コミュニティー)に基礎を置いた基底部が無くてはなりません。草の根の民主政治がこれからの時代を切り開くと思います。

つまり、来るべき未来の新しい文明に対応した地球規模での権力の再系列化が、いまこそ必要であるということであり、別の言い方をすれば人類社会における政治的遺伝子の組み換え作業がいま必要だということです。世界の政治システムから悪しき政治的遺伝子を排除し、良き政治的遺伝子のみを残して、現代政治システムを根本的に改変しなければならない時代がやってきたということです。(『知的野蛮人のすすめ』P29より)

地球規模での権力の再系列化とはどんなことだろう。いま、EUで「赤字の民主主義」が問題になっている。その先を模索すると、再系列化が必要になってくるのかもしれない。
実は、この地球規模での権力の再系列化こそが、隣人との関係に根ざしたデモクラシーではないでしょうか?

それは身近な生活にある人間的なつながりの中から始まります。例えば、ある人の苦しみにどう向き合うのかといった根本問題をから出発しなければなりません。
周囲から疎外され、自分をありのままに受け止めてくれるつながりを得られず、苦しさばかりが募る状況を、看過してはならないのです。
生命と生命が織りなす関連性によって育まれるもの、それが隣人との関係に根ざしたデモクラシーではないかと思います。
他者の尊厳を、自己の尊厳とと同様に、かけがえのないものと感じ、大切にしたいと願う心があってこそ、内発的なエンパワーメントEmpowermentが生まれてきます。
もっと具体的には、涙と笑顔が、そのまま「生きる勇気」を灯し合う人間のつながりの中に、真の対話は生まれるんです。
こうした思想的バックボーンがなければ、友情ある説得や草の根の民主政治は生まれてこないと思います。
高々とイデオロギーを掲げて共感を呼ぶ時代は終わりました。「些細なところに神が宿る」とあるサッカーの監督が言ったように、ひとり一人の対話や政治的な関心が草の根の民主政治を創り、時代を変えて行きます。

自由・平等・博愛の従来からある人間普遍の原理だけに頼っていては、21世紀というわれわれの目の前にある世紀ばかりではなく、遠く未来社会にわたって、地球人が生きていくことは不可能であるという認識に立たなければならない。このような考え方から生まれてきたのが第4の人類の普遍的原理である平和というものであった。つまり、三つの既成の普遍的原理に、平和というものを新たに加えることによって、これからの、全世界、全地球の人間の営みのシステムを全体的・構造的に変更し、新しい編成理論をもたなけれなならないということになった。

いま、“平和”の意味が大きな価値観を持ってきたようです。新しい時代では、平和を人類の普遍的原理として第1義に確立しなければいけません。
“平和”とは、非戦闘状態のことでは有りません。核抑止力による均衡を“平和”とは呼びません。
戦争への脅威について不断の戦いを継続し、邪悪な脅威と積極的に挑み戦うことが、人間の普遍的原理であり、普遍的価値としての“平和”であります。

何時の時代でも、愚者は自分の理想や心情が唯一絶対と信じ、暴力の恐怖手段に訴える。たとえ、清らかな心理ではあっても、権力で強制すれば、精神と人権弾圧の犯罪になる。戦争をすれば片方は必ず負ける。
従って、戦争手段は50%以上の成功は得られない。辛抱強い政治や外交努力による非暴力主義こそ、生命を犠牲にせずに両者が勝つような平和への道を開く。インド独立の英雄ガンジーが、「サティヤグラハ」思想でイギリス帝国主義に対抗し、独立を勝ち取った歴史が現存する。平和への長い坂は、いつまで続くのか。(「本音のコラム」東京新聞2003.2.24)

平和のながい坂は、今も続いています。それはガンジーの闘争であり、キング博士の闘争であり、池田大作の平和を獲得するための闘いです。
次世代のデモクラシーの真の姿は、闘いの中にあります。

次世代のデモクラシーdemocracyの人間の普遍原理は、
「自由・平等・博愛」から「平和・文化・教育」になるようだ。

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