対話からの民主主義

日本文化は、日本語の中にあると、日本語を大切に思っています。ところが日本語には「対話がないと」言うのです。さて、どういうこと?

こまばアゴラ劇場
こまばアゴラ劇場

近所に、こまばアゴラ劇場という小さな劇場があります。
劇場の支配人は劇作家の平田オリザ氏。
彼の著書「対話のレッスン」(講談社学術文庫)を読みました。

彼は戯曲・劇作家だから、さすが日本語に繊細な感性をもって、細密に見ています。
これまで演劇に無縁であった者からすると、劇作家の視点は大変面白く新鮮でした。

彼は「日本語には対話がないと」言います。そして民主制の原点は対話にあると言ってます。

哲学は、対話を前提とした思考と表現の規範であった。哲学的弁証法とは、いわば『対話』を高度に抽象化したものである。
演劇もまた同様だ。演劇が、他者との対話を必然的に要求し内包するものであることは、この連載でも折に触れて指摘してきた。ギリシャ人たちは、この新しい表現技術を磨くことによって、民主制という新たな政治体制を乗り切ろうとしたのではあるまいか。
いや実は、民主政治が演劇や哲学を要求したかどうか定かではない。あるいは演劇や哲学によって培われた対話の能力が、民主政治の発生を準備したのかもしれない。

岡野加穂留おかの かおる氏の平和社会のための政治学メモを思い出しました。「日本においては、デモクラシーという政治制度を支える精神的支柱がない」と言っていました。

民主政治、市民社会とは、異なる価値観、異なるコンテクスト(文脈・脈絡)の共有を穏やかに行っていく社会である。
どちらがどちらに強制するのでもない。時間をかけて粘り強く、ゆっくりと新しい価値観を創造していくのだ。そこでは、対話の技術が不可欠である。ギリシャで生まれた「演劇」あるいは「哲学」は、この「対話」の訓練であり、シミュレーションにほかならないのだ。

…と、かなり難しい論調になってますが、ギリシャの演劇と哲学を支えたのが、対話 だと言ってます。
更に、フランスでは、

世界で最初の市民革命を行い、共和制を手に入れたフランスは、しかし、その政局を安定させるのに、なんと100年近い歳月をかけている。市民革命、ナポレオン帝政、王政復古、二月革命、第二帝政、パリ・コミューン。多くの混乱のなかで、フランス人たちは、多量の血を流しつつ、対話の大切さを学び取り、民主主義を熟成させた。
日本は、いま、成熟社会への移行という大きな時代の曲がり角にさしかかっている。ここで再び、大きな国家目標を掲げて、この経済危機を乗り越えようとするのか。
あるいは、対話を武器に、重層性のある新しい社会体制を、時間をかけて築いていくのか。しかも、一滴の血も流さずに…。
私たちはいま、大きな選択を迫られている。

フランス語は、豊かな話し言葉であります。それに比べ、日本語は書き言葉です。書き言葉は、話し言葉の1/100しか表現できません。そういう意味から、日本語は世界的に見て特徴的です。

「対話のレッスン」p.15から転載
「対話のレッスン」p.15から転載

←これは「話し言葉の地図」だそうですが、日本語には対話が育ちませんでした。

明治維新以来、大慌てで仕立て直した日本語ですが、今度は、じっくりと民主主義の精神的支柱を築くために、対話の訓練をしなくてはなりません。

メディアの言語操作にごまかされずに、豊な日本語アクセントを使って、対話のなかで、豊かな表現を磨いていかなければなりません。

そんな対話の訓練から、新たな日本文化も民主主義もはぐくまれて欲しいのです。そして、新しい日本文化という民主主義をそだて上げて欲しいものだと思っています。

日本では演劇ではなく、普通のご婦人の活躍のなかから、対話の時代が来るような気がします。口から先に生まれたような、婦人のオシャベリのなかから、日本語独自のアクセントが生まれそうな気がします。

会話オシャベリ対話に生まれ変わったら凄いことになる、なんてひとちてるモリパパであります。