以前書いた大正デモクラシーへの道程で「何故、どのようにして、大正デモクラシーから戦争の時代へと進んでしまったのか?これは次回のテーマにしたい」と書きました。
そのテーマの一つとして、今回フォースエステート( the fourth estate)、即ちジャーナリズムの罪過を問うてみたいと思います。
大正デモクラシーの後に、戦争の時代へ扉を開いた罪過の片棒を担いだのは、ジャーナリズムであったことは明快です。
なかには、水野広徳のような潔よい異端児も居たのですが、当時おおぜいのジャーナリストは自社経営を優先して”満州事変支持”へと変節して行ったのです。その罪過は極めて重いものがあります。
熱狂しやすい世論、即ち、民主主義の脅威としてのポピュリズムは、その先に、権力の暴走を許してしまいました。
戦争への入口は勇壮で入り易く、出口は出難く悲惨な結果が待ち受けています。
戦争への道を塞ぐために! 戦争へ至った経緯を大衆ポピュリズムの視点から観てみたいと思います。
戦前日本のポピュリズムを書いた筒井清忠は、あとがきにこのように書いています。
昭和前期の蓄積の最終局面の上にそのまま乗っかている現代日本なのである。この点をよく知っていただかねば治まらない気持ちだったので、本書を書いてようやくすっきりした。
この著書は、大正デモクラシーから戦争への道を辿った歴史を、政府と軍部の関係、そして大衆ポピュリズムとメディアの関係に視点をおいて、史実を緻密に分析し辿っています。
大正デモクラシーを象徴する政党政治は、その後の昭和初期に、政友会と民政党の二大政党に分断されました。
党利党略に走った二大政党に対して、大衆から嫌悪感がつのって ”天皇親政”といった、半ば中立化へ向かってしまいました。
これが昭和初期の”天皇型ポピュリズム”です。それは即ち世論を、官僚、警察、軍部へ向かわしめたのです。
1930(S.5)11/14浜口雄幸が凶弾に倒れた後、次に若槻禮次郎が首班使命され、これまでの政策が引き継がれます。しかし、この若槻内閣のときに満州事変が勃発します。
戦争の時代への突入は明らかに満州事変です。それは柳条湖で満鉄路線が爆破[1931(s.6)9/18]に始まり、若槻内閣の総辞職する[1932 (S.7)12/13]までの86日間を言います。これが満州事変です。
満州事変から、第二次世界大戦までは、歴史は”戦争の時代” となり、直進的に繋がっています。
満州事変の背後には軍部「一夕会」永田鉄山の周到な計画が有ったことは、既に大正デモクラシーから戦争の時代へで書いた通りです。しかし、永田鉄山の暗躍だけでは、悲劇的な歴史を説明できません。
戦争の時代へのめり込んでゆく原因は、当時ポピュリズムを煽ったジャーナリズムだったことを見逃すわけにはいきません。
世論を作るのも、煽るのもジャーナリズムです。大衆にウケないと生きてゆけないのがジャーナリズムの宿命でもあります。
満州事変の前夜は、どんな時代だったのか? 実は、驚くことに平和主義を掲げ、軍制改革(軍縮)が実行された時代だったのです。