大正デモクラシーから戦争への道

ライオン宰相こと浜口雄幸

浜口内閣[1929(s.4)/7/2~1931/4/14]の最初の仕事は、緊縮財政と金解禁でした。
緊縮財政では、官吏全員の1割減俸を提案します。しかし猛烈な反対に会い、このとき初めて”統帥権干犯”との批判を浴びています。

当時の財政赤字はGDPの3倍を超え、緊縮財政で深刻な不景気を迎えていました。(まるで現在の財政赤字と同じですが、当時は国債乱発は出来なかった。日銀の異次元金融緩和の方途もなかった)

このような状況を打破するため、浜口は”解散・総選挙”に打って出ます。 これが強硬策で有名な浜口雄幸のやり方です。

その選挙の結果は圧勝。返って地盤を固めることになりました。そこで、次の難題ロンドン海軍軍縮条約の調印・批准に挑みます。
当然ながら、海軍の大反対に会い、これも統帥権干犯問題へ発展することとなります。しかし浜口はこれをも押し切ります。

浜口自身の言葉を借りれば、「自分が政権を失うとも民政党を失うとも又自分の身命を失うとも奪うべからざる堅き決心なり」「たとえ玉砕すとも男子の本懐ならずや」と、
まさに、ライオン宰相の異名に相応ふさしい強引な政治姿勢でした。

ここで、大正末期からの軍縮下で、軍人の立場がどう変わっていたか、理解しておく必要があります。
既に2次にわたる山梨(陸相)軍縮、宇垣(陸相)軍縮で合計96,400名が馘首かくしゅ (クビ)されました。将校も3,400名がクビになり、その将校の再就職が問題になったほどだったのです。
軍学校への志望者は激減し、軍人の地位は低下し、将校の結婚難まで問題になり、はた又 博徒まで軍人に喧嘩を売る始末でした。実に情けない軍人イメージだったのです。

こうした時流の中で”陸軍軍制改革”が追い打ちをかけました。そのうえマスメディア(新聞)の姿勢は「内閣は国民多数が支持するところ」「軍部はこの国民の世論を無視して政府に盾つかんとするは何ごと」といった論調で、軍の政治関与を問題にして、軍部に対する批判を繰り返していたのです。

小説「坂の上の雲」に出てくるような軍人のイメージは全くありません。当時の「軍人への待遇の失敗」が、晴らせない不満となり、満州事変を引き起こす遠因になったのかも知れません。

入植朝鮮人に反発した中国農民の小競り合いから、死者が出る万宝山事件となった。

一方、中国・満蒙では不穏な動き続いていました。
満州に入植した朝鮮人に、中国人が暴行殺害された万宝山事件や、朝鮮各地で中国人襲撃事件が起きるなど、満州を巡って日中関係もますます険悪になっていました。そして更に、排日運動へとエスカレートしていました。

そんな時代でも、浜口内閣の外交は平和協調を基本としていました。
対中政策に関しても、中国の関税自主権、治外法権撤廃を支持しており、中国への内政干渉はせず中国の自主を尊重する姿勢を貫いています。

パリ不戦条約ロンドン海軍軍縮条約にも”満腔の賛意”と形容するほど、”戦争放棄”を掲げ世界平和を誓う姿勢でした。

しかし、1930(S.5)11/14 浜口は東京駅で狙撃され重症を負い、翌年4/13総辞職します。(狙撃の負傷が原因で翌年8/26に死去しています)

平仄ひょうそく合わせた政治だった若槻礼次郎

次期首相に、4才年上の若槻禮次郎が再任され第二次若槻内閣が発足します。
この若槻内閣も、浜口の対中国政策を引き継ぎましたが、1931年(s.6)9/18 柳条湖事件が起きます。即ち、満州事変の勃発であります。
若槻はこの対応に追われ、軍部はもちろん国民の支持も得られず、閣内不一致で総辞職となります。

昭和初期、まだ週刊誌がない時代です。新聞は社説・論説による時事解説とともに、三面記事でゴシップも扱っていました。
当時の新聞は、大衆ポピュリズムを煽る役割もあったのです。だが新聞ジャーナリストには責任を負う矜持きょうじはなかった。

あれほど、軍部に対し不寛容だった新聞各紙は満州事変以降、変貌し大旋回します。”軍部批判”は”満州事変支持”へと豹変してしまいます。

大阪毎日新聞の部数は拡張していたのに、朝日は不買運動のため経営難に陥ります。やむなく朝日は”満州事変支持”へと経営方針を変更してしまいます。これが新聞ジャーナリズムなのです。

「自衛権の行使」だとか、「満州独立肯定論」や「満州駐屯軍への慰問金公募」など、朝日、毎日(東京日日)などが関東軍へ「満腔の謝意」などとの見出しで、「中国の言い分は盗人猛々しい」とか「正義の国、日本」「守れ満蒙=帝国の生命線」などと煽動しました。ポピュリズムに隷属するジャーナリズムです。

戦前日本のポピュリズム」を書いた筒井氏は「対外危機は大衆デモクラシー状況におけるポピュリストの最大の武器である」と評しています。当時、満州事変が対外危機だと扱われたのです。

歴史には偶然かと疑うようなことが起こることが偶々ときどきあります。

浜口雄幸が首相に指名され、浜口内閣が組閣された1929年(S.4)永田鉄山を中心とした陸軍の少壮将校たちが「一夕会」を結成していたのです。当時「一夕会」なる存在は誰も知りませんでしたが、後に満州事変を起こす中枢となったのです。

浜口雄幸と永田鉄山は同じ時代を生きています。どこかで戦争への道を封じられなかったのか?と誰もが想うところです。
しかし、時代がここまで来ると引き返せません。戦争は間際になって食い止められません。
大衆ポピュリズムという潮流は時間をかけて育ち、衝動的に戦争へ突入ことはないのです。

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